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第41回 静岡県浜松市    〜「やらまいか」の精神で数多の世界企業を生んだ浜松市は知る人ぞ知る「浴衣」の街

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静岡県浜松市。県西部に位置し、2007年4月に政令指定都市に移行した人口約80万人の街。 自動車のホンダとスズキ、楽器のヤマハなど数多の世界企業を生み出した日本有数のものづくりの街でもある。その根底には「やらまいか」という、やってやろうじゃないか。と新しいことに挑戦する気風がある。とにかく、まずはやってみようと挑戦し、何度も失敗を重ねては挑戦を繰り返し、最後は実現するというその精神こそが浜松市から世界に羽ばたく企業が生まれた要因である。  その「やらまいか」の精神のルーツとなるのが遠州織物にある。明治時代にあの世界企業・トヨタの創業者である豊田佐吉氏が小幅力織機を発明し、1930年(昭和5年)に鈴木道雄氏が広幅を織るサロン織機を発明して産業として発展するきっかけともなった。浜松市は繊維産業として当初は発展をしていった。中でも「浴衣」は東京や大阪と並ぶ日本三大産地の一つでもある。  東京の「浴衣」は藍をふんだんに使い一色で染めたような粋なデザインが、大阪の「浴衣」は色をふんだんに使ったカラフルで艶やかな色合いという特徴を持つが、浜松市の「浴衣」は生地から染めまで一貫して作ることができ、「浜松注染」といって大正時代からの日本独特の染め技法が使われている。糊を置き、型を使い、染料を上から注いで染める注染は日本古来の染色技術であり、染料を職人が手で注ぎ込んで染めている。生地の裏側にまでしっかりと染料が入り込むので表裏がなく、その色の深みが特徴。やわらかなぼかしは熟練職人の技で手作りの深みを感じさせる。そもそも、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で東京浴衣職人が移り住んできたことが浜松市の「浴衣」づくりの始まりである。  「浜松注染」は地の利が味方をした。市内には天竜川が流れており、注染染めには大量の水を必要とするので染色工場は川沿いに多く立地した。また、反物の乾燥に適した空っ風、新たな機械の開発も盛んに行われていた。さらに浜松市は東京と大阪の中間に位置していることから生産と供給に適した環境でもあった。これらが要因として浜松市は「浴衣」の産地として発展していったのである。  「浜松注染」は凹凸をつけることから、肌にまとわりつかず、生地にやさしい染色技法で通気性がよく、「浴衣」だけでなく手拭いやシャツに至るまで人気を集めている。その技法は現代まで引き継がれて全国に知れ...

第40回 山口県柳井市   〜毛利を残した岩国領吉川家の殿様に絶賛された200年続いている甘露醤油

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 山口県柳井市。山口県南東部に位置する人口約3万人の街である。江戸時代、瀬戸内海に面した地の利を活かして、廻船(貨客輸送船)の寄港地として発展した商業都市である。山陽本線・柳井駅の北側には白壁で覆われた建物が立ち並び、「岩国吉川領の御納戸」と称された往年の面影が残っている。その吉川家の殿様が絶賛し、現代にわたり200年以上続いている伝統産業がある。『甘露醤油』である。  『甘露醤油』は、正式には「再仕込み醤油」と言われるもので、柳井市が発祥と言われている。既に出来上がった濃口醤油に、もう一度麹(こうじ)を加えて発酵させる醸造方法で作られている。手間も材料も通常の醤油の約2倍必要とし、2年以上にわたりじっくりと熟成して他が及ばない独特の深みのある味わいや香り、色合いとも濃厚な仕上がりとなっている。特に刺し身や冷奴を食するときに使用すると堪能することができる。柳井市を中心とした西日本では『甘露醬油』と呼ばれているが、江戸時代に吉川家の殿様に絶賛され『甘露醬油』という名を賜ったと言われている。  柳井市の『甘露醬油』の始まりは、1780年代に高田伝兵衛が作り上げた醤油を時の吉川家七代当主・吉川経倫が、醤油の美味しさに思わず「甘露!甘露!」と感嘆の声を上げたという逸話が残されている。以後、現在において柳井市内には2つの蔵元が『甘露醬油』を作り続け、全国各地に出荷をしている。  柳井市には『甘露醬油』の他に、山口県の二大郷土民芸品の一つとして「金魚ちょうちん」がある。150年ほど前に、青森県弘前市の「金魚ねぷた」をヒントにしたもので、赤と白のすっきりとした胴体にパッチリと黒い目を開いたおどけた顔が特徴だ。竹ひごと和紙、赤と黒の染料で色付けして作られたもので、お土産として人気がある。この金魚ちょうちんが飾られた白壁の街並みは200メートル続いており観光客の人気スポットでもある。毎年8月13日は「金魚ちょうちん祭り」が開かれ、白壁の街並みを中心として4000個もの金魚ちょうちんが飾られ、夏の風物詩ともなっている。  最後に江戸時代を通じて柳井市を統治した岩国領・吉川家について。吉川家は毛利家一族であり、1600年(慶長5年)に行われた天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍総大将に祭り上げられた毛利輝元公の従兄弟だった吉川広家公が、裏で東軍・徳川家康に内通して毛利の名を残した経緯...

第39回 高知県安芸市   三菱グループ創始者・岩崎弥太郎氏を生んだ安芸市は『シラス』の聖地

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 高知県安芸市。太平洋を望む高知県東部の中心都市で人口が約1万6千人の街である。毎年2月にプロ野球の阪神タイガースがキャンプを行う地として知られている。また、三菱UFJ銀行をはじめとした三菱グループの創始者である岩崎弥太郎氏を生んだ土地でもある。大相撲の力士も土佐ノ海と栃煌山といった元関脇の二人も安芸市の出身である。  安芸市は太平洋に面していることから昔から漁業が盛んで、漁獲量の約90%が『シラス』で占められている「シラス」の聖地である。安芸市内には16件もの「シラス」を使ったちりめんじゃこ丼や「生シラス」が食べられる食堂がある。「シラス」を加工する工場と食堂が一体となっており、新鮮な「シラス」を食べることができる。  2019年には全国47都道府県において、約30%の安芸市を中心とした高知県は第6位の漁獲量を誇っており、愛知県や静岡県などには漁獲量では劣るものの新鮮さでは引けを取らない。安芸市の『シラス』が聖地である所以がここにある。安芸市内の海岸通りは、天気の良い日には大量のシラスが天日干しされていることから、「じゃこ通り」とも呼ばれている。  『シラス』はいわし類の稚仔(ちし)魚で、35ミリ以下程度のものである。黒潮が室戸沖に当たり荒波の中で育つことになり、身が引き締まって旨味が凝縮されて『シラス』になる。安芸市内の面積は88%が森林で、かつ、川も多く、山の栄養分が豊富に流れ込むことから、質の良いプランクトンを食べることで『シラス』の質も良くなっている。つまり、森に囲まれて質のいい『シラス』が育つ環境が整っている地の利が安芸市にある。特に秋が旬で、11月から翌年4月のものが多く、12月頃が一番おいしいと言われている。  安芸市が発祥と言われているシラス漁だが、その多くは家族経営となっている。2010年(平成22年)には120あった経営体が、2019年(令和元年)には96にまで減少している。伝統産業における全国共通の悩みである経営者の高齢化と後継者不足の解消が今後の課題となる。いかにして漁業の担い手を確保して、かつ、育成していくか? 安芸市が『シラス』の聖地として存続していくてための大きな課題である。  最後に安芸市は、『シラス』の他に「なす」や「柚子」「土佐ジロー(鶏肉)」も特産品であり、中でも「柚子」は全国生産量の約50%をを占めており、日本一の産...

第38回 沖縄県那覇市   〜沖縄返還から50年。琉球王国時代から600年続いている琉球泡盛は沖縄の誇り

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  沖縄県那覇市。人口約31万人。1972年(昭和47年)5月15日に太平洋戦争後、米国の統治下におかれていた沖縄が日本に返還された。今年2022年(令和4年)で50周年を迎える。この機に沖縄を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』が4月から放送されている。本土とは異なる沖縄独特の食文化と芭蕉布や三線(さんしん)などの伝統工芸を活かした演出が施されている。。  沖縄県には那覇市を中心として、かつての琉球王国時代から600年続いている『琉球泡盛』が沖縄県を代表する伝統産業の一つである。『琉球泡盛』は焼酎と同じ蒸留酒であり、黒麹とインディカ米(細長い米)であるタイ米を使用して、仕込みは1度だけの全麹仕込みで製造されているものである。タイ米を使用しているのは硬質でさらさらしていて粘り気が少なく、黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく米麴をつくりやすいためである。結果、香りや味わいに泡盛独特の風味を出している。ちなみに『琉球泡盛』は九州を代表する酒である焼酎の源流(ルーツ)ともなっている。  『琉球泡盛』の魅力的な点は、長期保存によって成分が熟成し味がまろやかに香り高くなることにある。一般に3年以上にわたって熟成された泡盛は、「古酒(く~す)」と呼ばれている。大切に管理していけば、100年や200年の古酒に育てることができるものである。実際、太平洋戦争によって多くの古酒が失われてしまったが、奇跡的に庭先に深く埋めていた古酒3本が残り、150年ものが最も古い泡盛と言われている。  『琉球泡盛』の歴史を紐解くと、1470年頃に現在の泡盛の原型とみられる酒が造られ、琉球王国時代に王府が管轄し、首里三箇と呼ばれた地域(赤田・崎山・鳥堀)限定でわずか40人の職人で泡盛造りが行われていた。『琉球泡盛』は外国の来賓をもてなす国酒として1853年には黒船で来航したペリー提督をもてなした記録がある。  『琉球泡盛』の名は沖縄県内で製造されていることを証明するもので、法律的には製造方法さえ守れば、沖縄県外でも泡盛の製造は可能である。差別化を図るために、2004年(平成16年)から表示に関する取り決めがなされた。ただし、アルコール度数が45度以下が条件となっている。この年に記録した27,688キロリットルの出荷量をピークに出荷量は減少の一途を辿り、出荷額も299億円から半額程度の約150億円と売...

第37回 長野県松本市   〜大正末期に生産量日本一となり一世を風靡した300年続く松本家具

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 長野県松本市。人口が約24万人の国際会議観光都市に指定されている県内第二の都市である。1907年(明治40年)に松本市とされ、2007年(平成19年)に市制施行100周年を迎えている。エレキギターの生産が盛んで、「松本てまり」「松本姉様人形」「七夕人形」「松本押絵雛」など民芸とクラフトの街としても知られており、国宝松本城を擁した観光地である。また、松本城を筆頭に旧開智学校などの歴史的建造物が多く保存されている。  松本市は、空気が乾燥して風通しが良く木材の乾燥に適しており、家具作りに最適な場所が要因で、当時すでに城下町として栄えていた安土桃山時代から家具の生産が盛んな土地柄だ。松本家具の主要材料であるミズメ桜(梓の木)は、硬くて粘り強い家具の用材として適した木で、その硬さゆえ、加工には機械を使わずに職人の手のみで作られている。良質な材料と鍛えぬかれた職人の技によって、美しく、かつ、堅牢な使うほどに味わい深い重みをもった家具として評価されている。  松本家具は「和」のしたたかさと「洋」のセンスがバランスよく調和するデザインに特徴があり、江戸時代から明治、大正、昭和とそれぞれの時代に応じた数多くの家具を生み出してきた。中でも、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興に伴い、家具の需要が高まり、大正時代の末期には家具の生産量が日本一となって一大家具産地を築き、一世を風靡したこともある。  しかし、太平洋戦争が始まると一時、生産が中止に追い込まれた。産地衰退の危機を救うため、戦後の1948年(昭和23年)に、池田三四郎が中心となって民芸運動に参加して木工産業の復興を図った。家具と言えば、福岡県大川市や北海道旭川市、岐阜県高山市などが家具産地として知られているが、松本家具も知る人ぞ知る存在で、1976年(昭和51年)に当時の通商産業省から家具部門としては全国で最初の伝統的工芸品の指定を受けており、300年以上の歴史をもっている。  最後に、松本市の観光名所である国宝松本城について。松本城は姫路城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)、松江城(島根県)、犬山城(愛知県)と並び国宝5城の一つで、1930年(昭和5年)に史跡指定され、1936年(昭和11年)に重要文化財として指定された。その後、戦災や火災を免れ、新たに制定された文化財保護法によって、1952年(昭和27年...

第36回 宮城県仙台市   〜グルメ武将・独眼竜伊達政宗公が現代に残した400年の歴史ある仙台味噌

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 宮城県仙台市。人口約106万人を擁する東北地方最大の都市で、言わずと知れた牛タンで有名な街である。仙台の街の基礎を作ったのは、あの独眼竜で知られた伊達政宗公だが、グルメ好きでも知られた戦国武将でもある。その名残りで以後400年にわたり現代に残されている伝統産業がある。仙台味噌だ。  仙台味噌は、政宗公が1601年(慶長6年)に仙台城を築城した際、その城下に「御塩噌蔵」(おえんそぐら)を設置したことに始まる。この「御塩噌蔵」は日本で最初の味噌工場とも言われた大規模な味噌の醸造設備である。仙台味噌は米を使い、大豆の比率が他の地域産に比べて高いのが特徴で、発酵熟成することによって、味は濃厚で深い旨味、辛口の赤味噌となり、出汁いらずで味噌汁ができると評判な味噌である。  この仙台味噌は江戸時代に繁盛している。政宗公の後継者・二代藩主である忠宗公の頃から、江戸・大井にあった仙台藩下屋敷においても「御塩噌蔵」を設け、本格的に味噌づくりを行っている。ここで作られた赤味噌は江戸で評判となり、「仙台味噌」の名が知られるところとなった。そのためか、大井の下屋敷は「味噌屋敷」とも言われたようである。その後、仙台味噌は明治時代に入っても東京の街で積極的に売られ、一世を風靡した。  仙台味噌は、第二次大戦中には配給味噌の基準製法となったこともあり、関東から東北地方にかけて圧倒的なシェアを有するまでになった。だが戦後において、長野で誕生した信州味噌の製造法が関東地方で普及したことによって、徐々に衰退していった。しかし現代でも仙台味噌は、赤味噌を代表するブランドの一つで、その名が全国に知られている。地元・仙台市内では現在でも6社の企業が伝統ある仙台味噌づくりを続けている。  味噌には米味噌・麦味噌・豆味噌という3つの種類があり、かつ、赤味噌や白味噌という色による分類がある。政宗公が現代に残した仙台味噌は米味噌で長期熟成の赤味噌、辛口にあたる。京都の白味噌が5~7%、信州味噌が10~12%に対して仙台味噌は、11~13%という塩分量と言われ、辛口と言われる所以である。  仙台の街の基礎を築いた政宗公であるが、戦いのみならず、茶道や能などにも勤しんだ教養人でもあった。また、同時にグルメ好きでもある。その影響から仙台味噌が生まれたと言っても過言ではない。政宗公は味噌だけでなく、製塩業や米づく...

第35回 埼玉県行田市   〜大ヒットドラマ『陸王』を生んだ江戸時代中期から300年続いている日本一の行田足袋

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 埼玉県行田市。人口は約77,000人で埼玉県名発祥の地でもある。また、「半沢直樹」や「下町ロケット」「ノーサイドゲーム」の著者・池井戸潤氏の『陸王』の舞台ともなり、2017年10月から12月までTBS日曜劇場でドラマ化されたことは記憶に新しい。そのドラマでは足袋の製造技術をランニングシューズに応用していた。行田市は江戸時代中期から300年続いている日本を代表する足袋の一大産地である。  行田市の足袋の始まりは地の利にある。利根川と荒川という二大河川に挟まれた肥沃な大地に、二つの川の氾濫で堆積した砂室土や豊富な水、夏季の高温が絹や藍の栽培に適していた。これを原料として足袋づくりが始まったのである。1716年~1735年あたり、忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励した。株仲間がなく取引が自由に行えたことから、足袋づくりは盛んとなり、行田の足袋は全国に知られるようになっていった。軍需用の足袋の生産にも携わるなど、増大に生産された足袋を保管するための足袋蔵が江戸時代後期には建てられるなど地場産業として成長していった。その足袋蔵は昭和30年代前半まで建設が続けられたようである。現在でも足袋蔵が多く残っており、行田市の足袋の街の象徴ともなっている。  足袋の製造にはミシンが欠かせず、工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、明治時代には生産量が一段と増大した。昭和13年から14年には全国の生産量シェア80%を占め、名実ともに日本一の足袋の生産地となった。しかし、戦後の1954年(昭和29年)にはナイロン製の靴下が発売され足袋づくりに陰りが見られ、1958年(昭和33年)頃には行田市の足袋業者の廃業や転業が加速していった。それでも1972年(昭和47年)には40億円の出荷額、1999年(平成11年)には40%、2017年(平成29年)は35%の全国シュアを維持し、靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられている。その行田市の足袋は、2019年(令和元年)に『行田足袋』として経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けている。  行田市は、映画「のぼうの城」の舞台にもなった10万石の城下町でもある。市内にある忍城は関東七名城の一つで小田原城を支える支城でもあったが、1590年に豊臣秀吉の家臣・石田三成によって水攻めを敢行されるも、小田原城が開城するまで落城しなかった。湿地帯の地...

第34回 兵庫県伊丹市   〜江戸の人々から賞賛されたうまい酒の代名詞・伊丹諸白で伊丹市は清酒発祥の街

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大阪国際空港を擁する兵庫県伊丹市は人口約20万人。米大リーグで長く活躍し、現在はプロ野球の楽天イーグルスに在籍する田中将大投手の出身地でもある。1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に起きた阪神淡路大震災では壊滅的な被害を受けたが、見事な街づくりで復興がなされている。  伊丹市は清酒発祥の街として知られている。1600年(慶長5年)に山中新六幸元が伊丹市北部の鴻池で双白澄酒(伊丹諸白)を造ったことが始まりだと言われている。室町時代からあった段仕込みを改良して、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。それまでの濁り酒(どぶろく)から清酒を醸造する技術が確立され、国内において本格的に清酒が一般大衆にも流通することになった。  山中新六幸元は、出雲国尼子家の家臣で「山陰の麒麟児」ともあだ名された山中鹿介の長男であり、武士の身分を捨てて摂津国に落ち延び、醸造家として生きる道を選んだ。その幸元を始祖とする鴻池家が、濁り酒から清酒を作ることに成功したという伊丹市の記録が残っているという。  その鴻池家が作ったお酒は、殆どが江戸に運ばれて「下り酒」と称され多くの人々に飲まれた。伊丹の酒は賞賛され、うまい酒の代名詞となる。「丹醸(たんじょう)」と呼ばれた高品質なお酒は、銘酒番付でも上位を占め、将軍家の「御膳酒」となった。江戸での成功によって財をなした鴻池家は、その後、大阪に移り、豪商・鴻池家に発展した。  しかし、江戸時代後期、幕府による酒造業への統制が厳しくなり、多くの酒造産地が衰退や消滅をしていった。伊丹でも1666年(寛文6年)から領主となった近衛家による酒造業の保護育成と品質の良さから生き残りに成功し、日本一の酒造産地として発展していった。  隆盛を極めた伊丹の酒造業は、次第に瀬戸内海に面し海運に適していた灘に江戸でのシェアを奪われ始め、幕末から明治にかけて大きく衰退した。現在、伊丹市内において酒造業を営んでいるのは、「白雪」の小西酒造と「老松」の伊丹老松酒造の2社だけとなった。しかし、400年の伝統と革新の清酒が今でも作り続けられている。  最後に、「伊丹諸白」は2020年(令和2年)6月に文化庁から日本遺産に認定された。かつて日本一の生産地であったことと、清酒発祥の地であることが伊丹市にとって誇りであると言っても過...

第33回 愛知県岡崎市   〜75歳まで生きた徳川家康を天下人に導いた長寿の秘訣・岡崎の八丁味噌

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 人口が約38万人の愛知県岡崎市。周知のとおり、あの徳川家康の生まれ故郷である。名将と呼ばれた武田信玄が53歳。その好敵手・上杉謙信は49歳。家康と同盟を組んだ織田信長も49歳。これらに比べて家康は享年75歳。家康が60歳にして天下人になり得た要因として長寿であったことが挙げられる。その家康がよく食していたものが、岡崎市の名産である八丁味噌だ。  八丁味噌の始まりは、約700年前に遡る。岡崎城から西へ八丁(約870M)の八帖町で作られてきた濃くて深い味わいが特徴の豆味噌である。大豆のみで大豆麹を造り、塩と水と一緒に木桶に仕込んでいき、水を少量しか使わない製法だ。普通の味噌に比べ、体を綺麗にしてくれる物質を多く含み、抗酸化作用や腸内環境を整えるなど、効果がある味噌である。  八丁味噌が作られている岡崎市八帖町は、東海道と矢作川の水運が交わる水陸交通の要衝であり、大豆や塩を入手しやすく、また作られた八丁味噌を出荷するのに適した地の利に恵まれた土地であった。保存性に優れていたため、三河武士の兵糧として岡崎藩に保護され、藩御用達の味噌ともされた。江戸時代には街道を往来する参勤交代やお伊勢参りの旅人を通じて、八丁味噌が全国に知られていった。  八丁味噌は職人が手で玉石を山のように積み上げて重石とし、二夏二冬以上という長期間にわたって熟成させている。桶一杯の味噌は約6トン、積み上げる石の山は約3トン、時間と手間がかかって大量生産ができない。薄暗い蔵には高さ2Mの大きな木桶、さらに3トンもの重石が円すい状に高々と積まれている。重いもので1個50kg以上もあり、地震でも崩れないほど、隙間なくガッチリと組めるようになるまで7~8年修行が必要な作業だという。積まれる重石は、塩分やうまみを桶全体に均一に回す役目があり、2年以上かけて熟成させるとまろやかな味わい深い味噌が仕上がっていく。  現在、この八丁味噌を作っているのは、1333年創業の蔵元「まるや八丁味噌」と1645年創業の「カクキュー八丁味噌」の2社のみ。この2社は旧東海道をはさんで南と北に位置しており、切磋琢磨しながら伝統の技と味を守りおいしい味噌が作られてきたという。  最後に『人間50年』と言われた時代において、信玄をはじめとした強者たちが50歳前後にしてこの世を去って行った中、天下分け目の関ケ原を制して60歳にして...

第32回 岡山県倉敷市   〜ジーンズだけではない。100年続いている全国シェアが70%の学生服もあった

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 岡山県倉敷市。人口約48万人の県内第2位の都市である。倉敷市と言えば、白壁の美観地区が観光地として知られている。また、知る人ぞ知るジーンズ発祥の地でもある。街には「児島ジーンズストリート」というジーンズショップが並ぶ通りがあり、多くの観光客で賑わっている。しかしながら、倉敷市のものづくりはジーンズだけではない。全国シェア70%を誇る学生服の街でもある。大小約30社ほどの学生服メーカーが児島地区にはある。  倉敷市はジーンズや学生服などの繊維産業が盛んであるが、その理由として綿花の栽培が挙げられる。岡山県は晴れの国と言われるとおり、雨が非常に少ないことと、中でも児島地区は干拓された土地が中心で塩気が多く、コメづくりには不向きな土地柄だった。そのため、塩気に強い綿花の栽培に力を入れたことが、ジーンズや学生服などのアパレル製品の製造に発展した。  倉敷市での学生服づくりは1918年(大正7年)。児島の角南周吉が始めたとされており、2018年(平成30年)に100年を迎えた。大正時代はむしろ足袋の生産で日本一となっていたが、昭和になると服装が洋装化されて需要は減少。足袋の裁断や縫製の技術がそのまま学生服の製造に活用されて生産が盛んになったという。第二次世界大戦前後は、学生服の製造は縮小したが、1947年(昭和22年)に教育基本法と学校教育法が制定されて、学生服の製造が再開された。合成繊維の開発や高度経済成長の波に乗り、学生服の生産量はさらに拡大し、1963年(昭和38年)には1006万着と史上最高を記録した。  学生服は贅沢品で一部の富裕層しか普及しなかったが、量産が始まって庶民にも普及したことで全国的に広がっていった。そして、最盛期の1980年(昭和55年)には製造出荷数を1222万着までに伸ばしていった。しかし、その後、少子化の影響もあって、2014年(平成26年)には590万着までに減少した。そのため、学生服を製造する業者の数が廃業や合併で減少。業界では生き残りをかけて販売方法を模索している。  学生服の製造で代表的な企業として「カンコー学生服」の名で知られる「菅公学生服」がる。社名が学問の神様と言われる「菅原道真」が由来となっている。本社は岡山市に移転しているものの、発祥は倉敷市児島である。その他にトンボや明石スクールユニフォームカンパニーなどが頑張ってい...

第31回 愛媛県松山市   〜数多の俳人を生んだ俳句の街・松山市には、かつて全国を席巻した伊予絣があった

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 愛媛県の県庁所在地である松山市。人口は約50万人。正岡子規をはじめとした多くの俳人を輩出した俳句の街でもあり、街中には俳句ポストが溢れている。また、夏目漱石の代表する小説「坊ちゃん」の舞台にもなり、日露戦争を描いた故・司馬遼太郎氏の歴史小説「坂の上の雲」では、冒頭の正岡子規や地元松山市出身の秋山好古・真之兄弟が登場している。  この松山市には、福岡県・久留米絣や広島県・備後絣と並び日本三大絣の一つにも数えられる伊予絣がある。温泉郡今出の鍵谷カナという人物が、独力で苦心のすえ製織したのが始まりである。藁屋根の押竹に白い縄目の跡があるのにヒントを得て、絣を織ることに成功。当初は「今出絣」と名付けられ、全国的に普及するにつれて、現在の「伊予絣」に呼ばれるに至った経緯がある。  1904年(明治37年)に生産量の26.5%で全国1位となり、明治から昭和初期の時代まで圧倒的な生産量を誇り、日本三大絣の一つに数えれらるまでに繁栄した。生産量のみならず、絵柄の多彩さや庶民性が受けたことが理由のようだ。絵柄は基本の井桁、玉かすり、花、お城などの凝った柄が多く、色も藍、赤、朱などの暖色がファッション心をくすぐり、また、庶民向けの着物として広く国内で愛用されていた。ピーク時は1906年(明治39年)、生産量は247万反で約5割を占めるまでになった。  久留米絣と備後絣は絹メインでやや割高であるのに対し、伊予絣は木綿100%で庶民的な価格であったことから農村の隅々まで行き渡った。行商人の地道な営業努力の賜物でもある。大手問屋に扱われる事が多かった久留米絣や備後絣とは一線を画したことが、人々の支持を得ることにつながったとも言える。  しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌が起こるまでは年産220万反を維持していたが、その後、洋装文化が進んだことで和装が衰退。絣の需要は低下し事業者の減少が始まった。現在では白方興業1社のみが生産を続けており織り手も2人のみ。年間生産量は60反にとどまっている。かつて、全国を席巻した伊予絣を残していくために民芸伊予かすり会館を開き頑張っている。この伊予絣は1980年(昭和55年)に愛媛県指定の伝統的特産品となっている。  最後に、松山市と聞けば道後温泉が頭に浮かぶ人が多いと思われる。約3000年の歴史があり、日本最古の温泉とも言われている。本館は1...

第30回 福岡県福岡市   〜豪商を生み出した商人の街・博多から誕生した780年続く日本三大織物の一つ博多織

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 福岡県福岡市。人口は約162万人。横浜・大阪・名古屋・札幌に続く人口160万人超えの政令指定都市である。博多と聞けば、多くの人々が明太子を頭に浮かべるのでは?かつて、戦国時代に戦で荒れた博多の街を復興させた天下人・豊臣秀吉のもとで、神谷宗湛や嶋井宗室などの豪商を生んだ商人の街でもある。こぼれ話があり、昔から福岡市は繁華街・中洲を流れる那珂川をはさみ、西側を行政の街・福岡と東側を商人の街・博多とに分かれている。よって、明治時代に市や駅の名前を決める際、ひと悶着があった。1890年(明治23年)に市議会にてわずか1票差で市の名称が「福岡市」に決定された。同年12月に当時の国鉄の駅名を「博多」に決めてなんとか収まったという経緯がある。だから、現在でも新幹線の駅名に「福岡駅」がない疑問が解けたのではないだろうか。  やや前置きが長くなったが、福岡市には780年続いている博多織という伝統産業があり、桐生や西陣と並ぶ日本三大織物の一つでもある。博多織は先染めの糸を使って、細い経糸(たていと)を多く用い、太い緯糸(よこいと)を強く打ち込み、主に経糸を浮かせて柄を織り出すのが特徴と言われている。1241年に満田弥三右衛門が宋で織物の製法を習得して博多に持ち帰ったのが博多織の始まりである。その250年後、弥三右衛門の子孫たちが織物の技法を研究し工法の改良を重ねて、琥珀織のように生地が厚く、模様の浮きでた厚地の織物を生んだ。  1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に味方した黒田長政が初代福岡藩主になると、徳川幕府への献上品として博多織は重宝されたという。織元に「織屋株」と称する特権を与え、藩からの需要のみを生産させて「献上の風格」と希少価値で保護したと言われている。よって、博多織は高級織物として知られながらも、人気急騰にもかかわらず、民衆の需要に応えることができなかった。幕府が崩壊した明治時代に入ると、博多織は自由に生産されるようになり、1885年(明治18年)にはジャカード機が導入され、1897年(明治30年)には240軒の織屋が存在するまでになった。しかし、その後に発生した日露戦争を境にして、活力が失われ30軒までに減少したという。  戦後の昭和30年代になると経済復興の中、着物ブームが生まれ、業者の数や生産量も増加。昭和50年のピーク時に168...

第29回 新潟県長岡市   〜山本五十六元帥を輩出したわが国最大の花火祭りと日本一のジャンボ油揚げの街

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 新潟県長岡市。人口は約26万人の県内第2の都市である。この長岡市からは多くの偉人を輩出している。まずは何と言ってもこの人抜きでは語れない山本五十六元帥である。日本海軍の連合艦隊司令長官で、当初は日米開戦に反対していたが、やむなくハワイ真珠湾攻撃を指揮した。幕末には新政府軍と戦って負傷して亡くなった越後長岡藩の家老を努めた河合継之助がいる。司馬遼太郎氏の小説「峠」のモデルでもある。また、日本ビールの父とも言われる中川清兵衛もいる。  すでにご周知のことと思われるが、長岡市は秋田県の大曲、茨城県の土浦と並ぶ日本三大花火まつりの地としても有名である。1945年(昭和20年)8月1日に市街地の80%が焼野原となり、1482人もの命が失われた。その慰霊と戦後復興の願いを込めて、翌1946年(昭和21年)から毎年8月2・3日の両日に開催されている花火大会である。多くの人々に感動を与えているという。  前置きが長くなってしまったが、長岡市には260年あまりにわたって作られている名物『油揚げ』がある。地元では「あぶらげ」と言われているが、2005年(平成17年)と2006年(平成18年)に行われた平成の大合併で長岡市に編入された旧栃尾町で今でも作られている知る人ぞ知る油揚げである。なんと言っても大きさがハンパではない。長さ20〜22センチ、幅6~8センチ、厚さ3センチというジャンボ油揚げである。そして、低温と高温の2つの鍋で二度揚げするので中の芯までふっくら揚がり、大きさと味ともに日本一の油揚げと言われ全国的にも知られている特産である。  「栃尾のあぶらげ」の始まりは、江戸時代中期に当時、隆盛を極めていた地元の秋葉神社に佐渡や上州、会津などから多くの参拝者が訪れることから、何かお土産になるのはないか?ということで、江戸の豆腐屋で修行をしていた林蔵が考案して油揚げが作られるようになったという。その後、栃尾の馬市で馬の売買が成立し酌み交わす酒の肴に好まれ、手づかみができて満腹になるようにと今の大きさになった逸話が残されている。また、栃尾には「全国名水百選」にも選ばれた杜々の森の湧水や城山金銘水、守門名水、薬師清水といった数多くの名水があり、これらの良質な水を原料である大豆に染み込ませることで美味しい油揚げが作られている。  最後に、長岡市は日本海随一とも言われる工業都市で、機...

第28回 福島県会津若松市   〜地名の名付け親・蒲生氏郷と将軍の隠し子・保科正之が奨励保護して発展した会津塗(漆器)

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人口約11万人の福島県会津若松市。幕末に新政府軍と戦った少年兵で組織された白虎隊の悲劇が頭に浮かぶ土地である。 二代将軍・秀忠の隠し子であり会津藩祖でもある保科正之公が徳川に絶対的な忠誠を誓っていたことから徹底抗戦したと言われている。この会津若松市には、江戸時代から多くの伝統産業が残されている。とりわけ福島県のお酒は評価が高く、明治時代から続く「全国新酒鑑評会」で7年連続で金賞受賞数が日本一である。中でも、鶴乃江酒造の「会津中将」という銘柄は保科正之公の官位から名づけられた名酒である。  会津若松市に伝統産業が多いのは、1590年に伊勢松坂から入封した蒲生氏郷の影響が大きい。当時の天下人・豊臣秀吉が同じ東北の伊達政宗をけん制するために、わざわざ氏郷を会津に移した。そして、氏郷は当時、黒川だった地名を「若松」に替えた。氏郷の故郷である日野の「若松の杜」に由来して名付けられたようだ。(1955年・昭和30年に北九州市若松区と混同回避するために現在の会津若松市となった経緯がある)  その氏郷がこの若松の地に根付かせたのが「会津塗」である。会津塗はよく知られる津軽塗や輪島塗よりも早くから盛んだったが、氏郷は産業として奨励するために近江国から木地師と塗師を招き基礎を作り上げた。そして、「塗大屋形」という漆器の伝習所を作り、職人の養成や技術の向上に努めさせた。以後、会津塗は地場産業として保護されていく。  その会津塗を大きく発展させたのが、冒頭に触れた保科正之公である。1643年に藩主となった正之は、漆の木の保護育成に努めた。藩内の漆の木は江戸時代初期は20万本ほどであったが、江戸時代中期の1700年頃には100万本を超えるまでになった。歴代藩主たちも会津塗を保護・奨励していった。そして、江戸へ売り出し、江戸時代後期には中国やオランダに輸出もしていた。江戸時代を通じて、会津塗は大きく発展成長していったのである。会津塗が産業として大きく発展することができた3つの要因がある。まずは、盆地特有の湿潤な気候により、漆を扱うのに適していたこと。次に、周囲を山々に囲まれ木材に恵まれていたこと。最後に代々の藩主たちが会津塗を保護したことにある。  しかし、江戸時代が終わりを告げて新政府軍との戊辰戦争が起こると、会津の街は焼野原となり荒廃してしまう。一時的に会津塗は衰退したが、1872年(明治...

第27回 山梨県甲府市   〜戦国の名将・武田信玄公が治水工事で整備した日本一のジュエリー(宝飾品)の街

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 人口約19万人の山梨県甲府市。 戦国時代、風林火山を旗印にした名将・武田信玄公が統治した街である。戦国最強軍団を率いて戦に強いというイメージがあるが、治水工事にも長けた経営者でもある。昔、甲府の街は洪水が多く、田畑の氾濫が相次いだ。信玄公が武田の当主となり20年という長い歳月をかけて治水工事を行い街を整備した。現代でも山梨県の人々から英雄とされ、『信玄公』と呼ばれている所以がここにある。この甲府の街に江戸時代から続いている伝統産業がある。水晶から宝石や貴金属を作る研磨加工である。                       始まりは江戸時代末期、甲府の北部にある金峰山一帯で水晶の原石が多く採掘されたことにある。1834年にその水晶を研磨する職人を京都より招き、研磨技術を応用して宝石の加工が始められ、国内向け以外にも外国商館にも販売された。明治時代に入ると政府の勧業政策に取り入れられ、明治中期には水晶玉や水晶の置物に加え、ブローチ用の水晶のカットも行われるなど、水晶工芸と貴金属工芸という2つの産業が結びついた。    明治後期から大正時代初期、水晶の研磨加工が機械化や電化されたことによって、手磨きから円盤磨きへと変わり、量産の基盤が確立されていった。その後、甲府の水晶の枯渇が顕著になり、代わりにブラジル産の水晶が大量に輸入されるようになった。結果、同一規格品の量産が可能になり、国内の販路拡張に伴って水晶細工や水晶首飾りがアメリカに輸出されたり、中国大陸への販売などによって、甲府の研磨宝飾品が全国に知られるようになった。  しかし、戦争が始まると研磨加工業者は水晶発振子や光学レンズなどの軍需研磨品の生産体制へと組み込まれたり、1940年(昭和15年)の奢多品等製造販売制限規制によって転廃業が進み、大きな打撃を受けた。戦後、進駐軍が首飾りやイヤリング、指輪などの水晶細工を土産品として大量に購入したことが甲府の宝石産業の復活となった。      進駐軍のブームが去ったあと、国内向けの生産が本格的に開始され、身辺装飾品に限らず室内装飾品や工業用品など多様な品種が量産されるようになった。高度経済成長期には次第に高級品へと移行し、ダイヤモンドをはじめイエローゴールド、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使った中級、高級製品の加工に取り組み、宝飾品の高級化や多様化を求める市場の...