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第26回 大阪府大阪市   〜明治時代から隆盛を極めた大阪ガラス産業の灯を守り続ける「天満切子」

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    かつて、戦国時代には天下人・豊臣秀吉が豪華絢爛な大坂城を築き、江戸時代には日本海ルートの西回り航路で、蝦夷(現在の北海道)や日本海沿岸の特産物が入り、『天下の台所』として栄えた大阪市。現在の北区堂島には、西国大名らの蔵屋敷が置かれるなどして賑わった。大阪市の人口は約275万人。大阪市では明治時代から大正、そして昭和の戦前までガラス産業が隆盛を極めた。学問の神様として知られる大阪天満宮の正門横には、「大阪ガラス発祥之地」という碑が立っている。  大阪のガラス産業の発祥は、1751年に長崎のガラス商人である播磨屋清兵衛が天満宮前で工場を作り、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を大阪に持ち込んだことにある。1819年には渡辺朝吉が天満にガラス工場を作った。江戸でもガラス産業は始まっていたが、大阪が少しばかり早かったようだ。大阪のガラス産業が発展した要因として、「水の都・大阪」と言われたとおり、ガラスの量産に必要なケイ砂や燃料となる石炭を運ぶ手段として水運が発達していたことにある。明治時代になると、イギリスから新しい製造技術が伝わり、大阪のガラス産業は発展した。1875年(明治8年)に伊藤契信が与力に、1882年(明治15年)には、島田孫市が天満にガラス工場を作り天満切子のルーツとなった。  「天満切子」は、北区与力と同心界隈を中心に発展していき、当時は江戸切子で知られる東京を凌ぐほど隆盛を極めていた。また、昭和の高度経済成長あたりまで、子供たちに人気のあったガラスのビー玉が始めて国産化されたのも大阪市北区である。第二次大戦後、大阪市内でのマンション建設などに伴う郊外への工場移転に始まり、近年では国内での競争や、安い輸入品に押されるなどして、大阪のガラス産業は衰退しガラス工場は消えてしまったが、「天満切子」の工房は今でも残っている。  切子と聞くと、江戸切子や鹿児島の薩摩切子が有名だが、これらはV字形の刃を用いた模様が特徴であるが、「天満切子」はU字形の刃で削り、手磨きと言われるつや出しを施すことでシンプルでかつ、美しい仕上がりとなっている点に特徴がある。その様はお酒を入れると光の屈折で底から模様が上がってくる万華鏡のように輝いている。2019年(令和元年)に大阪で開催されたG20大阪サミットでは、世界の各国首脳に天満切子が贈呈され、また、2025年に開催が予定され