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第27回 山梨県甲府市   〜戦国の名将・武田信玄公が治水工事で整備した日本一のジュエリー(宝飾品)の街

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 人口約19万人の山梨県甲府市。 戦国時代、風林火山を旗印にした名将・武田信玄公が統治した街である。戦国最強軍団を率いて戦に強いというイメージがあるが、治水工事にも長けた経営者でもある。昔、甲府の街は洪水が多く、田畑の氾濫が相次いだ。信玄公が武田の当主となり20年という長い歳月をかけて治水工事を行い街を整備した。現代でも山梨県の人々から英雄とされ、『信玄公』と呼ばれている所以がここにある。この甲府の街に江戸時代から続いている伝統産業がある。水晶から宝石や貴金属を作る研磨加工である。                       始まりは江戸時代末期、甲府の北部にある金峰山一帯で水晶の原石が多く採掘されたことにある。1834年にその水晶を研磨する職人を京都より招き、研磨技術を応用して宝石の加工が始められ、国内向け以外にも外国商館にも販売された。明治時代に入ると政府の勧業政策に取り入れられ、明治中期には水晶玉や水晶の置物に加え、ブローチ用の水晶のカットも行われるなど、水晶工芸と貴金属工芸という2つの産業が結びついた。    明治後期から大正時代初期、水晶の研磨加工が機械化や電化されたことによって、手磨きから円盤磨きへと変わり、量産の基盤が確立されていった。その後、甲府の水晶の枯渇が顕著になり、代わりにブラジル産の水晶が大量に輸入されるようになった。結果、同一規格品の量産が可能になり、国内の販路拡張に伴って水晶細工や水晶首飾りがアメリカに輸出されたり、中国大陸への販売などによって、甲府の研磨宝飾品が全国に知られるようになった。  しかし、戦争が始まると研磨加工業者は水晶発振子や光学レンズなどの軍需研磨品の生産体制へと組み込まれたり、1940年(昭和15年)の奢多品等製造販売制限規制によって転廃業が進み、大きな打撃を受けた。戦後、進駐軍が首飾りやイヤリング、指輪などの水晶細工を土産品として大量に購入したことが甲府の宝石産業の復活となった。      進駐軍のブームが去ったあと、国内向けの生産が本格的に開始され、身辺装飾品に限らず室内装飾品や工業用品など多様な品種が量産されるようになった。高度経済成長期には次第に高級品へと移行し、ダイヤモンドをはじめイエローゴールド、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使った中級、高級製品の加工に取り組み、宝飾品の高級化や多様化を求める市場の