第32回 岡山県倉敷市 〜ジーンズだけではない。100年続いている全国シェアが70%の学生服もあった
岡山県倉敷市。人口約48万人の県内第2位の都市である。倉敷市と言えば、白壁の美観地区が観光地として知られている。また、知る人ぞ知るジーンズ発祥の地でもある。街には「児島ジーンズストリート」というジーンズショップが並ぶ通りがあり、多くの観光客で賑わっている。しかしながら、倉敷市のものづくりはジーンズだけではない。全国シェア70%を誇る学生服の街でもある。大小約30社ほどの学生服メーカーが児島地区にはある。
倉敷市はジーンズや学生服などの繊維産業が盛んであるが、その理由として綿花の栽培が挙げられる。岡山県は晴れの国と言われるとおり、雨が非常に少ないことと、中でも児島地区は干拓された土地が中心で塩気が多く、コメづくりには不向きな土地柄だった。そのため、塩気に強い綿花の栽培に力を入れたことが、ジーンズや学生服などのアパレル製品の製造に発展した。
倉敷市での学生服づくりは1918年(大正7年)。児島の角南周吉が始めたとされており、2018年(平成30年)に100年を迎えた。大正時代はむしろ足袋の生産で日本一となっていたが、昭和になると服装が洋装化されて需要は減少。足袋の裁断や縫製の技術がそのまま学生服の製造に活用されて生産が盛んになったという。第二次世界大戦前後は、学生服の製造は縮小したが、1947年(昭和22年)に教育基本法と学校教育法が制定されて、学生服の製造が再開された。合成繊維の開発や高度経済成長の波に乗り、学生服の生産量はさらに拡大し、1963年(昭和38年)には1006万着と史上最高を記録した。
学生服は贅沢品で一部の富裕層しか普及しなかったが、量産が始まって庶民にも普及したことで全国的に広がっていった。そして、最盛期の1980年(昭和55年)には製造出荷数を1222万着までに伸ばしていった。しかし、その後、少子化の影響もあって、2014年(平成26年)には590万着までに減少した。そのため、学生服を製造する業者の数が廃業や合併で減少。業界では生き残りをかけて販売方法を模索している。
学生服の製造で代表的な企業として「カンコー学生服」の名で知られる「菅公学生服」がる。社名が学問の神様と言われる「菅原道真」が由来となっている。本社は岡山市に移転しているものの、発祥は倉敷市児島である。その他にトンボや明石スクールユニフォームカンパニーなどが頑張っている。
また、倉敷市は繊維産業だけでなく、瀬戸内海側の臨海部にある水島地区においては、石油コンビナートなど重化学工業地帯が形成されており、3兆円の製品出荷額を誇っている。大阪市と並ぶ西日本を代表する工業都市としての顔も持っている。
最後に倉敷市の著名な方に触れておきたい。2018年(平成30年)にお亡くなりになった星野仙一さんである。言わずと知れた中日ドラゴンズのエースとして活躍され、その後、中日の監督を努めリーグ優勝。また、長く暗黒時代と言われるほど低迷していた阪神タイガースを18年ぶりのリーグ優勝に導いたり、楽天イーグルスを日本一に導いた手腕は特筆すべきものがある。美観地区に「星野仙一記念館」があったが、残念ながら2021年11月30日を以って閉館となった。
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