第30回 福岡県福岡市 〜豪商を生み出した商人の街・博多から誕生した780年続く日本三大織物の一つ博多織
福岡県福岡市。人口は約162万人。横浜・大阪・名古屋・札幌に続く人口160万人超えの政令指定都市である。博多と聞けば、多くの人々が明太子を頭に浮かべるのでは?かつて、戦国時代に戦で荒れた博多の街を復興させた天下人・豊臣秀吉のもとで、神谷宗湛や嶋井宗室などの豪商を生んだ商人の街でもある。こぼれ話があり、昔から福岡市は繁華街・中洲を流れる那珂川をはさみ、西側を行政の街・福岡と東側を商人の街・博多とに分かれている。よって、明治時代に市や駅の名前を決める際、ひと悶着があった。1890年(明治23年)に市議会にてわずか1票差で市の名称が「福岡市」に決定された。同年12月に当時の国鉄の駅名を「博多」に決めてなんとか収まったという経緯がある。だから、現在でも新幹線の駅名に「福岡駅」がない疑問が解けたのではないだろうか。
やや前置きが長くなったが、福岡市には780年続いている博多織という伝統産業があり、桐生や西陣と並ぶ日本三大織物の一つでもある。博多織は先染めの糸を使って、細い経糸(たていと)を多く用い、太い緯糸(よこいと)を強く打ち込み、主に経糸を浮かせて柄を織り出すのが特徴と言われている。1241年に満田弥三右衛門が宋で織物の製法を習得して博多に持ち帰ったのが博多織の始まりである。その250年後、弥三右衛門の子孫たちが織物の技法を研究し工法の改良を重ねて、琥珀織のように生地が厚く、模様の浮きでた厚地の織物を生んだ。
1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に味方した黒田長政が初代福岡藩主になると、徳川幕府への献上品として博多織は重宝されたという。織元に「織屋株」と称する特権を与え、藩からの需要のみを生産させて「献上の風格」と希少価値で保護したと言われている。よって、博多織は高級織物として知られながらも、人気急騰にもかかわらず、民衆の需要に応えることができなかった。幕府が崩壊した明治時代に入ると、博多織は自由に生産されるようになり、1885年(明治18年)にはジャカード機が導入され、1897年(明治30年)には240軒の織屋が存在するまでになった。しかし、その後に発生した日露戦争を境にして、活力が失われ30軒までに減少したという。
戦後の昭和30年代になると経済復興の中、着物ブームが生まれ、業者の数や生産量も増加。昭和50年のピーク時に168軒、帯で約200万本の生産量を誇るまでに成長し、1976年(昭和51年)6月に国の伝統的工芸品の指定を受けた。現在では伝統的な帯の生産のみならず、博多織の特徴を活かしてギフト製品やネクタイ、バック、名刺入れ、緞帳なども製造されている。ちなみに、福岡市では毎年11月に大相撲九州場所が開催されているが、幕下以上の力士は浴衣を締める帯としても博多織は愛用されている。
正直、「福岡」よりも「博多」という響きの方が全国的にも有名だが、その要因として博多明太子や博多織、博多人形という「博多」という名がついたものの知名度が高いことが挙げられる。博多人形も博多織と同様に長い歴史があり、(1601年に初代福岡藩主・黒田長政が福岡城を築城する際に集めた瓦職人たちが生み出した素焼人形が発祥)1900年と1925年のパリ万国博覧会にも出品して高い評価を受け、世界的にも知られている伝統工芸品で、博多織より少し早い1976年(昭和51年)2月に国から伝統的工芸品の指定を受けている。
最後に、福岡市は博多明太子を筆頭に、もつ鍋や水炊き、屋台でのラーメンなど、美味しいものに溢れたグルメ都市であり、また、5月に「博多どんたく」7月に「博多祇園山笠」などの祭りが開催され、賑わい多い熱い街と言っても過言ではないでしょう。
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