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第35回 埼玉県行田市   〜大ヒットドラマ『陸王』を生んだ江戸時代中期から300年続いている日本一の行田足袋

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 埼玉県行田市。人口は約77,000人で埼玉県名発祥の地でもある。また、「半沢直樹」や「下町ロケット」「ノーサイドゲーム」の著者・池井戸潤氏の『陸王』の舞台ともなり、2017年10月から12月までTBS日曜劇場でドラマ化されたことは記憶に新しい。そのドラマでは足袋の製造技術をランニングシューズに応用していた。行田市は江戸時代中期から300年続いている日本を代表する足袋の一大産地である。  行田市の足袋の始まりは地の利にある。利根川と荒川という二大河川に挟まれた肥沃な大地に、二つの川の氾濫で堆積した砂室土や豊富な水、夏季の高温が絹や藍の栽培に適していた。これを原料として足袋づくりが始まったのである。1716年~1735年あたり、忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励した。株仲間がなく取引が自由に行えたことから、足袋づくりは盛んとなり、行田の足袋は全国に知られるようになっていった。軍需用の足袋の生産にも携わるなど、増大に生産された足袋を保管するための足袋蔵が江戸時代後期には建てられるなど地場産業として成長していった。その足袋蔵は昭和30年代前半まで建設が続けられたようである。現在でも足袋蔵が多く残っており、行田市の足袋の街の象徴ともなっている。  足袋の製造にはミシンが欠かせず、工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、明治時代には生産量が一段と増大した。昭和13年から14年には全国の生産量シェア80%を占め、名実ともに日本一の足袋の生産地となった。しかし、戦後の1954年(昭和29年)にはナイロン製の靴下が発売され足袋づくりに陰りが見られ、1958年(昭和33年)頃には行田市の足袋業者の廃業や転業が加速していった。それでも1972年(昭和47年)には40億円の出荷額、1999年(平成11年)には40%、2017年(平成29年)は35%の全国シュアを維持し、靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられている。その行田市の足袋は、2019年(令和元年)に『行田足袋』として経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けている。  行田市は、映画「のぼうの城」の舞台にもなった10万石の城下町でもある。市内にある忍城は関東七名城の一つで小田原城を支える支城でもあったが、1590年に豊臣秀吉の家臣・石田三成によって水攻めを敢行されるも、小田原城が開城するまで落城しなかった。湿地帯の地形を巧み

第34回 兵庫県伊丹市   〜江戸の人々から賞賛されたうまい酒の代名詞・伊丹諸白で伊丹市は清酒発祥の街

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大阪国際空港を擁する兵庫県伊丹市は人口約20万人。米大リーグで長く活躍し、現在はプロ野球の楽天イーグルスに在籍する田中将大投手の出身地でもある。1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に起きた阪神淡路大震災では壊滅的な被害を受けたが、見事な街づくりで復興がなされている。  伊丹市は清酒発祥の街として知られている。1600年(慶長5年)に山中新六幸元が伊丹市北部の鴻池で双白澄酒(伊丹諸白)を造ったことが始まりだと言われている。室町時代からあった段仕込みを改良して、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。それまでの濁り酒(どぶろく)から清酒を醸造する技術が確立され、国内において本格的に清酒が一般大衆にも流通することになった。  山中新六幸元は、出雲国尼子家の家臣で「山陰の麒麟児」ともあだ名された山中鹿介の長男であり、武士の身分を捨てて摂津国に落ち延び、醸造家として生きる道を選んだ。その幸元を始祖とする鴻池家が、濁り酒から清酒を作ることに成功したという伊丹市の記録が残っているという。  その鴻池家が作ったお酒は、殆どが江戸に運ばれて「下り酒」と称され多くの人々に飲まれた。伊丹の酒は賞賛され、うまい酒の代名詞となる。「丹醸(たんじょう)」と呼ばれた高品質なお酒は、銘酒番付でも上位を占め、将軍家の「御膳酒」となった。江戸での成功によって財をなした鴻池家は、その後、大阪に移り、豪商・鴻池家に発展した。  しかし、江戸時代後期、幕府による酒造業への統制が厳しくなり、多くの酒造産地が衰退や消滅をしていった。伊丹でも1666年(寛文6年)から領主となった近衛家による酒造業の保護育成と品質の良さから生き残りに成功し、日本一の酒造産地として発展していった。  隆盛を極めた伊丹の酒造業は、次第に瀬戸内海に面し海運に適していた灘に江戸でのシェアを奪われ始め、幕末から明治にかけて大きく衰退した。現在、伊丹市内において酒造業を営んでいるのは、「白雪」の小西酒造と「老松」の伊丹老松酒造の2社だけとなった。しかし、400年の伝統と革新の清酒が今でも作り続けられている。  最後に、「伊丹諸白」は2020年(令和2年)6月に文化庁から日本遺産に認定された。かつて日本一の生産地であったことと、清酒発祥の地であることが伊丹市にとって誇りであると言っても過

第33回 愛知県岡崎市   〜75歳まで生きた徳川家康を天下人に導いた長寿の秘訣・岡崎の八丁味噌

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 人口が約38万人の愛知県岡崎市。周知のとおり、あの徳川家康の生まれ故郷である。名将と呼ばれた武田信玄が53歳。その好敵手・上杉謙信は49歳。家康と同盟を組んだ織田信長も49歳。これらに比べて家康は享年75歳。家康が60歳にして天下人になり得た要因として長寿であったことが挙げられる。その家康がよく食していたものが、岡崎市の名産である八丁味噌だ。  八丁味噌の始まりは、約700年前に遡る。岡崎城から西へ八丁(約870M)の八帖町で作られてきた濃くて深い味わいが特徴の豆味噌である。大豆のみで大豆麹を造り、塩と水と一緒に木桶に仕込んでいき、水を少量しか使わない製法だ。普通の味噌に比べ、体を綺麗にしてくれる物質を多く含み、抗酸化作用や腸内環境を整えるなど、効果がある味噌である。  八丁味噌が作られている岡崎市八帖町は、東海道と矢作川の水運が交わる水陸交通の要衝であり、大豆や塩を入手しやすく、また作られた八丁味噌を出荷するのに適した地の利に恵まれた土地であった。保存性に優れていたため、三河武士の兵糧として岡崎藩に保護され、藩御用達の味噌ともされた。江戸時代には街道を往来する参勤交代やお伊勢参りの旅人を通じて、八丁味噌が全国に知られていった。  八丁味噌は職人が手で玉石を山のように積み上げて重石とし、二夏二冬以上という長期間にわたって熟成させている。桶一杯の味噌は約6トン、積み上げる石の山は約3トン、時間と手間がかかって大量生産ができない。薄暗い蔵には高さ2Mの大きな木桶、さらに3トンもの重石が円すい状に高々と積まれている。重いもので1個50kg以上もあり、地震でも崩れないほど、隙間なくガッチリと組めるようになるまで7~8年修行が必要な作業だという。積まれる重石は、塩分やうまみを桶全体に均一に回す役目があり、2年以上かけて熟成させるとまろやかな味わい深い味噌が仕上がっていく。  現在、この八丁味噌を作っているのは、1333年創業の蔵元「まるや八丁味噌」と1645年創業の「カクキュー八丁味噌」の2社のみ。この2社は旧東海道をはさんで南と北に位置しており、切磋琢磨しながら伝統の技と味を守りおいしい味噌が作られてきたという。  最後に『人間50年』と言われた時代において、信玄をはじめとした強者たちが50歳前後にしてこの世を去って行った中、天下分け目の関ケ原を制して60歳にして天下を手

第32回 岡山県倉敷市   〜ジーンズだけではない。100年続いている全国シェアが70%の学生服もあった

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 岡山県倉敷市。人口約48万人の県内第2位の都市である。倉敷市と言えば、白壁の美観地区が観光地として知られている。また、知る人ぞ知るジーンズ発祥の地でもある。街には「児島ジーンズストリート」というジーンズショップが並ぶ通りがあり、多くの観光客で賑わっている。しかしながら、倉敷市のものづくりはジーンズだけではない。全国シェア70%を誇る学生服の街でもある。大小約30社ほどの学生服メーカーが児島地区にはある。  倉敷市はジーンズや学生服などの繊維産業が盛んであるが、その理由として綿花の栽培が挙げられる。岡山県は晴れの国と言われるとおり、雨が非常に少ないことと、中でも児島地区は干拓された土地が中心で塩気が多く、コメづくりには不向きな土地柄だった。そのため、塩気に強い綿花の栽培に力を入れたことが、ジーンズや学生服などのアパレル製品の製造に発展した。  倉敷市での学生服づくりは1918年(大正7年)。児島の角南周吉が始めたとされており、2018年(平成30年)に100年を迎えた。大正時代はむしろ足袋の生産で日本一となっていたが、昭和になると服装が洋装化されて需要は減少。足袋の裁断や縫製の技術がそのまま学生服の製造に活用されて生産が盛んになったという。第二次世界大戦前後は、学生服の製造は縮小したが、1947年(昭和22年)に教育基本法と学校教育法が制定されて、学生服の製造が再開された。合成繊維の開発や高度経済成長の波に乗り、学生服の生産量はさらに拡大し、1963年(昭和38年)には1006万着と史上最高を記録した。  学生服は贅沢品で一部の富裕層しか普及しなかったが、量産が始まって庶民にも普及したことで全国的に広がっていった。そして、最盛期の1980年(昭和55年)には製造出荷数を1222万着までに伸ばしていった。しかし、その後、少子化の影響もあって、2014年(平成26年)には590万着までに減少した。そのため、学生服を製造する業者の数が廃業や合併で減少。業界では生き残りをかけて販売方法を模索している。  学生服の製造で代表的な企業として「カンコー学生服」の名で知られる「菅公学生服」がる。社名が学問の神様と言われる「菅原道真」が由来となっている。本社は岡山市に移転しているものの、発祥は倉敷市児島である。その他にトンボや明石スクールユニフォームカンパニーなどが頑張っている。  

第31回 愛媛県松山市   〜数多の俳人を生んだ俳句の街・松山市には、かつて全国を席巻した伊予絣があった

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 愛媛県の県庁所在地である松山市。人口は約50万人。正岡子規をはじめとした多くの俳人を輩出した俳句の街でもあり、街中には俳句ポストが溢れている。また、夏目漱石の代表する小説「坊ちゃん」の舞台にもなり、日露戦争を描いた故・司馬遼太郎氏の歴史小説「坂の上の雲」では、冒頭の正岡子規や地元松山市出身の秋山好古・真之兄弟が登場している。  この松山市には、福岡県・久留米絣や広島県・備後絣と並び日本三大絣の一つにも数えられる伊予絣がある。温泉郡今出の鍵谷カナという人物が、独力で苦心のすえ製織したのが始まりである。藁屋根の押竹に白い縄目の跡があるのにヒントを得て、絣を織ることに成功。当初は「今出絣」と名付けられ、全国的に普及するにつれて、現在の「伊予絣」に呼ばれるに至った経緯がある。  1904年(明治37年)に生産量の26.5%で全国1位となり、明治から昭和初期の時代まで圧倒的な生産量を誇り、日本三大絣の一つに数えれらるまでに繁栄した。生産量のみならず、絵柄の多彩さや庶民性が受けたことが理由のようだ。絵柄は基本の井桁、玉かすり、花、お城などの凝った柄が多く、色も藍、赤、朱などの暖色がファッション心をくすぐり、また、庶民向けの着物として広く国内で愛用されていた。ピーク時は1906年(明治39年)、生産量は247万反で約5割を占めるまでになった。  久留米絣と備後絣は絹メインでやや割高であるのに対し、伊予絣は木綿100%で庶民的な価格であったことから農村の隅々まで行き渡った。行商人の地道な営業努力の賜物でもある。大手問屋に扱われる事が多かった久留米絣や備後絣とは一線を画したことが、人々の支持を得ることにつながったとも言える。  しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌が起こるまでは年産220万反を維持していたが、その後、洋装文化が進んだことで和装が衰退。絣の需要は低下し事業者の減少が始まった。現在では白方興業1社のみが生産を続けており織り手も2人のみ。年間生産量は60反にとどまっている。かつて、全国を席巻した伊予絣を残していくために民芸伊予かすり会館を開き頑張っている。この伊予絣は1980年(昭和55年)に愛媛県指定の伝統的特産品となっている。  最後に、松山市と聞けば道後温泉が頭に浮かぶ人が多いと思われる。約3000年の歴史があり、日本最古の温泉とも言われている。本館は1894年

第30回 福岡県福岡市   〜豪商を生み出した商人の街・博多から誕生した780年続く日本三大織物の一つ博多織

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 福岡県福岡市。人口は約162万人。横浜・大阪・名古屋・札幌に続く人口160万人超えの政令指定都市である。博多と聞けば、多くの人々が明太子を頭に浮かべるのでは?かつて、戦国時代に戦で荒れた博多の街を復興させた天下人・豊臣秀吉のもとで、神谷宗湛や嶋井宗室などの豪商を生んだ商人の街でもある。こぼれ話があり、昔から福岡市は繁華街・中洲を流れる那珂川をはさみ、西側を行政の街・福岡と東側を商人の街・博多とに分かれている。よって、明治時代に市や駅の名前を決める際、ひと悶着があった。1890年(明治23年)に市議会にてわずか1票差で市の名称が「福岡市」に決定された。同年12月に当時の国鉄の駅名を「博多」に決めてなんとか収まったという経緯がある。だから、現在でも新幹線の駅名に「福岡駅」がない疑問が解けたのではないだろうか。  やや前置きが長くなったが、福岡市には780年続いている博多織という伝統産業があり、桐生や西陣と並ぶ日本三大織物の一つでもある。博多織は先染めの糸を使って、細い経糸(たていと)を多く用い、太い緯糸(よこいと)を強く打ち込み、主に経糸を浮かせて柄を織り出すのが特徴と言われている。1241年に満田弥三右衛門が宋で織物の製法を習得して博多に持ち帰ったのが博多織の始まりである。その250年後、弥三右衛門の子孫たちが織物の技法を研究し工法の改良を重ねて、琥珀織のように生地が厚く、模様の浮きでた厚地の織物を生んだ。  1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に味方した黒田長政が初代福岡藩主になると、徳川幕府への献上品として博多織は重宝されたという。織元に「織屋株」と称する特権を与え、藩からの需要のみを生産させて「献上の風格」と希少価値で保護したと言われている。よって、博多織は高級織物として知られながらも、人気急騰にもかかわらず、民衆の需要に応えることができなかった。幕府が崩壊した明治時代に入ると、博多織は自由に生産されるようになり、1885年(明治18年)にはジャカード機が導入され、1897年(明治30年)には240軒の織屋が存在するまでになった。しかし、その後に発生した日露戦争を境にして、活力が失われ30軒までに減少したという。  戦後の昭和30年代になると経済復興の中、着物ブームが生まれ、業者の数や生産量も増加。昭和50年のピーク時に168軒、帯で

第29回 新潟県長岡市   〜山本五十六元帥を輩出したわが国最大の花火祭りと日本一のジャンボ油揚げの街

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 新潟県長岡市。人口は約26万人の県内第2の都市である。この長岡市からは多くの偉人を輩出している。まずは何と言ってもこの人抜きでは語れない山本五十六元帥である。日本海軍の連合艦隊司令長官で、当初は日米開戦に反対していたが、やむなくハワイ真珠湾攻撃を指揮した。幕末には新政府軍と戦って負傷して亡くなった越後長岡藩の家老を努めた河合継之助がいる。司馬遼太郎氏の小説「峠」のモデルでもある。また、日本ビールの父とも言われる中川清兵衛もいる。  すでにご周知のことと思われるが、長岡市は秋田県の大曲、茨城県の土浦と並ぶ日本三大花火まつりの地としても有名である。1945年(昭和20年)8月1日に市街地の80%が焼野原となり、1482人もの命が失われた。その慰霊と戦後復興の願いを込めて、翌1946年(昭和21年)から毎年8月2・3日の両日に開催されている花火大会である。多くの人々に感動を与えているという。  前置きが長くなってしまったが、長岡市には260年あまりにわたって作られている名物『油揚げ』がある。地元では「あぶらげ」と言われているが、2005年(平成17年)と2006年(平成18年)に行われた平成の大合併で長岡市に編入された旧栃尾町で今でも作られている知る人ぞ知る油揚げである。なんと言っても大きさがハンパではない。長さ20〜22センチ、幅6~8センチ、厚さ3センチというジャンボ油揚げである。そして、低温と高温の2つの鍋で二度揚げするので中の芯までふっくら揚がり、大きさと味ともに日本一の油揚げと言われ全国的にも知られている特産である。  「栃尾のあぶらげ」の始まりは、江戸時代中期に当時、隆盛を極めていた地元の秋葉神社に佐渡や上州、会津などから多くの参拝者が訪れることから、何かお土産になるのはないか?ということで、江戸の豆腐屋で修行をしていた林蔵が考案して油揚げが作られるようになったという。その後、栃尾の馬市で馬の売買が成立し酌み交わす酒の肴に好まれ、手づかみができて満腹になるようにと今の大きさになった逸話が残されている。また、栃尾には「全国名水百選」にも選ばれた杜々の森の湧水や城山金銘水、守門名水、薬師清水といった数多くの名水があり、これらの良質な水を原料である大豆に染み込ませることで美味しい油揚げが作られている。  最後に、長岡市は日本海随一とも言われる工業都市で、機械金属加