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第25回 岐阜県大垣市   〜木曽ヒノキと水運の地の利を生かした1300年続く全国シェア8割の木製木枡

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 岐阜県大垣市。人口は約15万7千人。ここは『水の郷』と認定された豊富な水運がある。かつては戦国時代、天下人・秀吉が織田信長の家臣の時代に7年という長い月日、美濃攻めで苦戦をしていた際、秀吉が築いた墨俣一夜城で勝利のきっかけを掴んだ歴史がある。昼間に木曽川の上流に行き、木を伐採してイカダで木曽川を下って運び、夜中に墨俣に一夜城を築いた話である。この戦いの勝利で秀吉は出世街道を駆け上った。  同様に水運を使って木曽ヒノキを運び、栄えた地場産業が今もある。木製の木枡である。全国シュア80%を誇り、今でも年間で200万個出荷し、1300年続いている一大産業である。木曽、東濃など日本有数のヒノキの産地に大垣市は近く、良質のヒノキを手にして、なおかつ、木曽川や長良川、揖斐川といった水運に恵まれたことが大きな発展を遂げた。まさに地の利を生かしたといっても過言ではない。  枡は歴史上、重要な役割を果たしてきた物品でもある。戦国時代には織田信長が商業経済発展のために、秀吉は太閤検地の際の基準のために枡の統一をなし、徳川家康は京枡一本にして統一していった。三人の名将たちによって、枡の基準や容量も同時に統一されるなど、それほど、枡は経済安定のために欠かせないものだった。  大垣の枡づくりの始まりは、明治時代に木曽からヒノキが集まる名古屋から、一人の職人が大垣にやってきたことに由来する。枡は一般的に高級な木材と言われるヒノキを原料として、お米などの穀物や、酒、油、芋などの人間が食料を計る道具としての役割を果たしていた。1966年(昭和41年)の計量法の改正で、お米の計量器という役割から樽酒を振る舞う酒器として、祝賀パーティーや結婚式を華やかに演出したり、神仏に備えるお供物の器などとして、1300年の伝統と歴史を守ってきた。現在でも大垣市内では、4社の枡製造業者が枡づくりを継続している。  大垣市は冒頭でも示したとおり、国土交通省より『水の郷』の認定を受けた水の都。生産量は少ないが、知る人ぞ知る「わさび」の街でもある。豊富な地下水に恵まれた恩恵が枡づくりのみならず、わさびづくりにも活かされている。  最後に大垣市で忘れてはならない人物がいる。俳人の松尾芭蕉である。当時46歳の芭蕉が、1689年に江戸深川を起点として奥州や北陸道を通り、約2400キロの道のりを約150日かけた旅の「終焉の地」

第24回 山口県萩市   〜明治維新のふるさとは、毛利家長州藩以来400年の歴史ある萩焼を生んだ

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 山口県萩市。人口は約4万3千人。萩と聞くと吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文など、日本を変えていこうと立ち上がった志士たちの名が浮かぶ人々も多いのではないだろうか?萩の街が『明治維新のふるさと』と言われる所以がここにある。この萩の街に400年以上続いている伝統産業がある。萩焼である。佐賀・有田焼ほど知名度はないが、「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれるほど、国内外から芸術性が高く評価されており、2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品の指定を受けている。観光土産としても幅広い層から支持を集めている。  萩焼の始まりは毛利輝元公にある。周知のとおり、輝元公は1600年(慶長5年)の天下分け目の関ケ原の戦いで西軍総大将に祭り上げられて徳川家康の東軍に敗れ、120万石の領地を周防・長門の二国に大幅に削減された。その後、当時は交通の要衝だった瀬戸内海沿岸に城を築くことは徳川幕府から許されず、日本海側の萩の地で生きていかねばならなくなった。1604年(慶長9年)に萩城は完成し、輝元公は朝鮮から二人の陶工を萩に招いた。そこで、藩の御用窯を開き萩焼の始まりとなった。長州藩のみならず徳山藩などの毛利一族の御用釜として寄与し、「高麗茶碗」の技芸を持つ陶工によって、朝鮮王朝の様式に伝承する茶陶を中心に発展した。  萩市は窯業として有名な街であり数多くの陶工を輩出した。萩焼の大きな特徴は焼き上がりの土にやわらかさとその吸水性にある。主原料である「大道土」と萩市の離島である見島から「見島土」という2種類の土が使われている。吸水性があるので長年使っていると、器の表面にある細かいヒビ模様が現れて茶碗の趣が変わり、茶人の間で「萩の七化け」と言われて珍重されている。  萩焼は明治時代に入ると藩の御用窯は民営化され、苦しい経営を余儀なくされたが、1877年(明治10年)に内国博覧会で坂高麗左衛門が鳳紋賞碑を受賞して注目された。太平洋戦争に突入した物資欠乏の時代には、「工芸時術保存資格者認定」のもとで萩焼の伝統を維持。戦後の混乱期には日用雑器を中心として生産し、戦後の人々の暮らしを支えた。高度経済成長期に入ると、茶道や焼き物が盛り上がりを見せて萩焼の需要が拡大。現在では個人作家の作陶が中心となり、100を超える窯元が萩市内には存在している。そして、毎年5月の大型連休と秋に萩焼祭りが開かれており、多くの来場

第23回 高知県高知市   〜初代藩主・山内一豊公より400年続く藁焼きカツオで消費量日本一

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 犬猿の間柄だった薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟の締結に奮闘した幕末の風雲児・坂本龍馬、龍馬の盟友で京都・近江屋で運命を共にした中岡慎太郎、最後の将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提言した山内容堂、並びに三菱グループの創始者・岩崎弥太郎や自由民権運動で知られる板垣退助など、多くの人々の名が浮かび上がる土佐藩。現在の高知市だが人口は32万人。ここはカツオの消費量と消費金額がともに2位以下を圧倒するカツオの街である。  高知市内にはカツオのたたきを提供する水産加工業者や小売飲食店が数多ある。特にカツオのたたきは『藁焼き』が全国的に有名だ。カツオは「初鰹」と言って3~5月、「戻り鰹」として9~11月と年に二度、旬の時期がある。高知市内で提供されるカツオのたたきは、前述のとおり藁で焼かれ、中身は少しレアで食されるのが通常である。この藁焼きの由来は400年遡ることになる。関ケ原の戦いが終わった1601年(慶長6年)に、土佐藩20万石の初代藩主として入国した山内一豊が始まりである。  土佐藩の漁師たちはもともと生でカツオを食べていたが、当時多く発生していた生食による食中毒を防ぐために、一豊はカツオを生で食べることを禁ずるお触れを出した。漁師たちは殿さまの言うがままにカツオを焼いて食べていたが、最後まで火が通っていないレアなものもあったという。そこで、せっかくなので食べてみようか、ということで食してみると、とても旨かったという。これが高知市で藁焼きが現代に伝わっている説とも言われている。  現在、カツオのたたきは全国的にはポン酢で食されることが多いが、本場・高知市では『塩たたき』で提供されることが普通である。カツオを藁焼きにして焼きたての熱々を天日塩で食べるのが極上のようだ。藁は火力が非常に強く、約1000度に達するまで瞬時にカツオの表面をムラなく焼き上げる。結果、藁の煙や香りはより一層風味を引き立てている。カツオの皮目をパリッとするまで炙り、中にまで熱が伝わらないように熱いまますぐに切り分けるので、焼きたての香ばしい香りが食欲をそそいでいる。藁焼きにすると余分な水分が抜け、濃厚な味わいになるという。  ちなみに、藁焼きで使われる藁は高知県産のものを使っている。ただ、高知県内の農家の高齢化や、人口減少に伴う後継者不在が重なり藁の確保が年々難しくなっている課題も浮かび上がっている

第22回 鹿児島県鹿児島市   〜100年の時を経て復活。西郷どんを見出した名君・島津斉彬公が残した薩摩切子

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 明治維新を成し遂げた西郷隆盛と大久保利通。日露戦争においてバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎など、数多くの偉人を生み出した旧薩摩藩の鹿児島市。人口は59万人。 中でも冒頭の西郷を見出した28代薩摩藩主だった島津斉彬公は国の将来を憂い、「集成館」という工場を作り、製鉄や造船、紡績、ガラスなど多くの事業を生み出した名君である。  その中でも、一度は途絶えながらも100年の時を経て、1985年(昭和60年)に復活した事業がある。現代において多くの方々が知る『薩摩切子』である。斉彬公は集成館事業の一環として、長崎から伝来した外国のガラス製造に関する書物をもとに江戸からガラス職人を招く。そして、世界への輸出を目的としてガラス工芸品を生み出した。そのガラス工芸品は将軍家への献上品として、また全国各地の大名に贈答品とされるなど薩摩藩の殖産興業の一つとして高い評価を受け、日本初の発色に成功したガラスは「薩摩の紅ガラス」と呼ばれた。しかし、1858年(安政5年)にその斉彬公は急死。その後、薩英戦争や明治維新、西南戦争などでガラス工芸づくりが途絶えた。  そんな状況の中、薩摩のガラス工芸品を復活させたいと職人が集い、『薩摩切子』が誕生した。ガラスの切子は現在でも東京や大阪でも作られているが、『薩摩切子』には「ぼかし」という特徴がある。「ぼかし」とは、透明ガラスの上に色ガラスを厚く被せ、様々な文様を彫っていく卓越したカット技術で生み出され、そのグラデーションの様は見る者に温かみを感じさせるものである。『薩摩切子』はクリスタルガラスとも言われ、透明度と光の屈折率が高く、高品質で無色透明なガラスで輝きが水晶のようであることから名付けられた。  全国的に知名度が高い江戸切子との違いは先述した「ぼかし」のほか、すっきりとした単文様のデザインが好まれる江戸切子に対し、『薩摩切子』では複数の文様が組み合わされたゴージャスなものが多く、デザインにも違いが見られる。その『薩摩切子』は復活から12年後の1997年(平成9年)に鹿児島県から伝統的工芸品として指定を受けた。(但し、まだ経済産業省の伝統的工芸品としての指定は受けていない)  『薩摩切子』を後世に残した斉彬公だが、現代において鹿児島市の銘菓として有名な『軽羹(かるかん)まんじゅう』がある。これも斉彬公が生み出したものと言っても過言ではない。江

第21回 福井県福井市      〜朝倉文化で栄華を誇った小京都から時代を常にリードする全国屈指の繊維王国へ

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 北陸地方は繊維産業が盛んな地域だが、中でも福井市は全国でも屈指の繊維王国である。人口は約26万人。ナイロンやポリエステルなどの合成繊維長繊維織物では日本有数の産地である。合繊長繊維織物の分野では、全国生産量の約4割を占めている。温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優美な絹織物の生産が盛んだった。絹織物は江戸時代、福井藩の財政を支える重要な品目となっていた。  その福井藩の初代藩主は結城秀康。あの天下人・徳川家康の次男である。秀吉の人質となり、下野・結城家に養子に出され、結城性を名乗っている。1600年に福井に入った秀康は「玉紬」を「北荘紬」と改称し、藩士の内職として奨励。品質の改良や販路の拡張に努め、公儀献上品の一つにしたと言われている。さらに「北荘紬」を「奉書紬」と改称し、高い品質は全国に広く知られるようになり生産量が急増。藩の財政基盤となったのである。  しかし、藩財政が逼迫したまま明治維新に突入。1872年(明治4年)欧米視察から帰国した由利公正が絹布見本を持ち帰り、福井の繊維産業を近代化に導く。最新鋭の製織技術を導入し輸出向けを中心とした羽二重織物の生産が盛んとなった。その後において、主な生産品目をレーヨンや合成繊維と変えていき、福井の繊維産業は生き残っていった。生産品目を頻繁に変えていったことによって、現在でも地域経済を支える力となっている繊維産地は皆無に等しい、非常に稀有な地域と言っても過言ではない。  大正、戦前の昭和時代を経て、設備の近代化が大幅に進み、人絹糸の国内生産が質と量ともに本格的となり、黄金時代を迎えた。戦後の苦境を乗り越えた後、合繊糸が登場。人絹織物から合繊織物へシフト。昭和30年代にナイロンが、昭和40年代にはポリエステルが登場して高度成長。カーシート材で大きく成長発展したセーレンを中心に世界最大規模の長繊維産地へと発展した。  しかし今、繊維業界は海外からの安価な製品が流入して厳しい状況を迎えている中、福井の繊維産業はファッションやスポーツ、レジャーといった身近なシーンから、建設・機械といった産業分野、医療、航空や宇宙産業まで幅広く繊維製品を提供している。  福井市は繊維産業のみならず、銀杏材木工品、越前和蝋燭、三国箪笥などの伝統産業がある。また、一乗谷で5代103年統治した朝倉家が朝倉文化を築き、小京都として栄華を極めた。現在、国の三

第20回 山形県米沢市      〜大手メーカー・帝人を生んだ名君・上杉鷹山公より続く世界に誇る米沢織

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 米沢、と耳にしてすぐ頭に浮かぶのが日本三大和牛の一つ「米沢牛」だと思われる。その米沢市は人口約8万人。『義』で知られる戦国武将・上杉謙信を藩祖にもつ名門・上杉家のお膝元である。その上杉家9代藩主・上杉鷹山により現代に伝わる事業として「米沢織」がある。  1601年に関ケ原の戦いに敗れた上杉家が会津120万石から米沢30万石に大幅に石高を削られて窮乏した際、藩主・上杉景勝の参謀だった直江兼続が、財政再建の一環で青苧や絹を生む蚕の餌となる桑、さらには染料となる紅花などの栽培を家臣たちに奨励したのが米沢織のはじまりである。  約170年の時を経て、米沢9代藩主に就任したあの名君と誉れ高い上杉鷹山が、破綻寸前だった藩の財政を救った。武家の婦女子に機織りを習得させ、養蚕業奨励のために京都から織物師を招いて織物産業に注力し、発展させた。紅花や藍などの植物染料で糸を染めて織る先染めの技術で米沢織が全国に知られるようになった。さらに明治時代から昭和の時代には、動力を利用した「力織機」を導入して生産設備が強化され、インドやアメリカへの輸出取引に発展した。  明治時代、米沢には2つの工業学校が設立された。明治30年4月に米沢工業高校が開校。さらに明治43年には米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)が開校して地元企業との共同開発が盛んとなった。同校の教授を務めた秦逸三氏が大正4年に「東レザー分工場米沢人造絹糸製造所」で人工絹糸の製造を開始。大正6年に成功し、後に現在の帝人が創設された。人工絹糸はレーヨンとも呼ばれ、今日の化学合成繊維糸を駆使する土台を形成。現在、ハイテク繊維やマイクロファイバーなどを使う新合繊産地につながっている。  米沢織は今日、高品質な織物で知られ、婦人服地の分野で技術開発してきたので繊維の分野では世界一と言われるイタリアのコモに匹敵する技術力を有するまでに発展している。また、袴の分野では全国シェア95%以上を占めており日本一を誇っている。  ここで米沢織が今日まで発展してきた要因として3つ挙げておきたい。まずは米沢という豪雪地帯で屋内での作業を強いられたこと。次に古くから養蚕業が盛んだったことから、青苧や紅花などの原料が豊富にあったこと。そして、名君・鷹山公からの常に新しい商品開発に挑戦してきた気質がある。米沢は撚糸、染色、仕上げ、縫製、捺染、ニット、紡績など関

第19回 神奈川県小田原市   〜魚の宝庫・相模湾と箱根の伏流水に恵まれた200年の小田原かまぼこ

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神奈川県西部に位置する小田原市。人口は約18万人。天下人・徳川家康が江戸に入るまで、関東一円を支配していた後北条氏が首都に定めた500年の歴史を持つ城下町である。多くの種類の魚が取れ、箱根の伏流水に恵まれて約200年前の江戸時代後期から作られているものがある。かまぼこである。小田原を代表する名産品と言っても過言ではない。かまぼこ通りが駅前にある。  小田原かまぼこの始まりは、今から約200年前の大久保氏が小田原藩主を務めていた時代に魚の保存利用として生まれた。相模湾で漁獲される魚の評判を聞いて日本橋から移り住んできた職人が、相模湾で獲れるオオギスを原料に板かまぼこを完成。小田原は東海道五十三次の中でも特に賑わう宿場町で参勤交代などの人の往来が多く、板にすり身を扇形に盛り付けた形の小田原かまぼこが全国に広まった。  明治時代から大正時代にかけて、相模湾で獲れるオオギスやクロムツ、イサキなどを主原料として発展。昭和時代に入ると生産量が増大し、地元の魚だけでは賄いきれなくなった。そこで、下関や長崎などの遠方から運んだ「グチ」という魚を使うことになる。「グチ」は独特な弾力があり、小田原かまぼこの特徴でもある「あし」と呼ばれる弾力を生み出した。戦後、技術の進歩によって冷凍すり身に変わっていき、小田原かまぼこも「グチ」の冷凍すり身を使うようになり「グチ」の使用量が全国一となった。  かまぼこの製造工程には「魚の身を取る」「水にさらす(洗う)」「身をする」という3つの工程があり、かまぼこづくりには水が欠かせない。小田原の水は軟水の中でも少し硬度が高く、ミネラル分が多い。これがかまぼこづくりに適している。水が変わると「さらしがきかない」という事が起こる。小田原の水はミネラル分が豊富な地下水だからこそ、余分な脂分と臭みを落とし、上品な魚の旨味だけを残したかまぼこづくりができる。鉄分やカルシウムなどミネラル分が豊富な箱根の豊かな伏流水が重要な役目を果たしている。まさに豊富な魚が獲れる相模湾と箱根の伏流水に恵まれた環境の恩恵は大きい。  小田原から箱根登山鉄道に乗り2つ目の「風祭」駅で降りると、改札を出た目の前に「かまぼこの里」がある。これは1865年創業の老舗かまぼこ企業・鈴廣の本社工場。かまぼこを中心に地元の食産物も販売しており、多くの来場者で賑わっている。中の一角には「かまぼこ博物