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第21回 福井県福井市      〜朝倉文化で栄華を誇った小京都から時代を常にリードする全国屈指の繊維王国へ

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 北陸地方は繊維産業が盛んな地域だが、中でも福井市は全国でも屈指の繊維王国である。人口は約26万人。ナイロンやポリエステルなどの合成繊維長繊維織物では日本有数の産地である。合繊長繊維織物の分野では、全国生産量の約4割を占めている。温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優美な絹織物の生産が盛んだった。絹織物は江戸時代、福井藩の財政を支える重要な品目となっていた。  その福井藩の初代藩主は結城秀康。あの天下人・徳川家康の次男である。秀吉の人質となり、下野・結城家に養子に出され、結城性を名乗っている。1600年に福井に入った秀康は「玉紬」を「北荘紬」と改称し、藩士の内職として奨励。品質の改良や販路の拡張に努め、公儀献上品の一つにしたと言われている。さらに「北荘紬」を「奉書紬」と改称し、高い品質は全国に広く知られるようになり生産量が急増。藩の財政基盤となったのである。  しかし、藩財政が逼迫したまま明治維新に突入。1872年(明治4年)欧米視察から帰国した由利公正が絹布見本を持ち帰り、福井の繊維産業を近代化に導く。最新鋭の製織技術を導入し輸出向けを中心とした羽二重織物の生産が盛んとなった。その後において、主な生産品目をレーヨンや合成繊維と変えていき、福井の繊維産業は生き残っていった。生産品目を頻繁に変えていったことによって、現在でも地域経済を支える力となっている繊維産地は皆無に等しい、非常に稀有な地域と言っても過言ではない。  大正、戦前の昭和時代を経て、設備の近代化が大幅に進み、人絹糸の国内生産が質と量ともに本格的となり、黄金時代を迎えた。戦後の苦境を乗り越えた後、合繊糸が登場。人絹織物から合繊織物へシフト。昭和30年代にナイロンが、昭和40年代にはポリエステルが登場して高度成長。カーシート材で大きく成長発展したセーレンを中心に世界最大規模の長繊維産地へと発展した。  しかし今、繊維業界は海外からの安価な製品が流入して厳しい状況を迎えている中、福井の繊維産業はファッションやスポーツ、レジャーといった身近なシーンから、建設・機械といった産業分野、医療、航空や宇宙産業まで幅広く繊維製品を提供している。  福井市は繊維産業のみならず、銀杏材木工品、越前和蝋燭、三国箪笥などの伝統産業がある。また、一乗谷で5代103年統治した朝倉家が朝倉文化を築き、小京都として栄華を極めた。現在、国の三

第20回 山形県米沢市      〜大手メーカー・帝人を生んだ名君・上杉鷹山公より続く世界に誇る米沢織

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 米沢、と耳にしてすぐ頭に浮かぶのが日本三大和牛の一つ「米沢牛」だと思われる。その米沢市は人口約8万人。『義』で知られる戦国武将・上杉謙信を藩祖にもつ名門・上杉家のお膝元である。その上杉家9代藩主・上杉鷹山により現代に伝わる事業として「米沢織」がある。  1601年に関ケ原の戦いに敗れた上杉家が会津120万石から米沢30万石に大幅に石高を削られて窮乏した際、藩主・上杉景勝の参謀だった直江兼続が、財政再建の一環で青苧や絹を生む蚕の餌となる桑、さらには染料となる紅花などの栽培を家臣たちに奨励したのが米沢織のはじまりである。  約170年の時を経て、米沢9代藩主に就任したあの名君と誉れ高い上杉鷹山が、破綻寸前だった藩の財政を救った。武家の婦女子に機織りを習得させ、養蚕業奨励のために京都から織物師を招いて織物産業に注力し、発展させた。紅花や藍などの植物染料で糸を染めて織る先染めの技術で米沢織が全国に知られるようになった。さらに明治時代から昭和の時代には、動力を利用した「力織機」を導入して生産設備が強化され、インドやアメリカへの輸出取引に発展した。  明治時代、米沢には2つの工業学校が設立された。明治30年4月に米沢工業高校が開校。さらに明治43年には米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)が開校して地元企業との共同開発が盛んとなった。同校の教授を務めた秦逸三氏が大正4年に「東レザー分工場米沢人造絹糸製造所」で人工絹糸の製造を開始。大正6年に成功し、後に現在の帝人が創設された。人工絹糸はレーヨンとも呼ばれ、今日の化学合成繊維糸を駆使する土台を形成。現在、ハイテク繊維やマイクロファイバーなどを使う新合繊産地につながっている。  米沢織は今日、高品質な織物で知られ、婦人服地の分野で技術開発してきたので繊維の分野では世界一と言われるイタリアのコモに匹敵する技術力を有するまでに発展している。また、袴の分野では全国シェア95%以上を占めており日本一を誇っている。  ここで米沢織が今日まで発展してきた要因として3つ挙げておきたい。まずは米沢という豪雪地帯で屋内での作業を強いられたこと。次に古くから養蚕業が盛んだったことから、青苧や紅花などの原料が豊富にあったこと。そして、名君・鷹山公からの常に新しい商品開発に挑戦してきた気質がある。米沢は撚糸、染色、仕上げ、縫製、捺染、ニット、紡績など関

第19回 神奈川県小田原市   〜魚の宝庫・相模湾と箱根の伏流水に恵まれた200年の小田原かまぼこ

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神奈川県西部に位置する小田原市。人口は約18万人。天下人・徳川家康が江戸に入るまで、関東一円を支配していた後北条氏が首都に定めた500年の歴史を持つ城下町である。多くの種類の魚が取れ、箱根の伏流水に恵まれて約200年前の江戸時代後期から作られているものがある。かまぼこである。小田原を代表する名産品と言っても過言ではない。かまぼこ通りが駅前にある。  小田原かまぼこの始まりは、今から約200年前の大久保氏が小田原藩主を務めていた時代に魚の保存利用として生まれた。相模湾で漁獲される魚の評判を聞いて日本橋から移り住んできた職人が、相模湾で獲れるオオギスを原料に板かまぼこを完成。小田原は東海道五十三次の中でも特に賑わう宿場町で参勤交代などの人の往来が多く、板にすり身を扇形に盛り付けた形の小田原かまぼこが全国に広まった。  明治時代から大正時代にかけて、相模湾で獲れるオオギスやクロムツ、イサキなどを主原料として発展。昭和時代に入ると生産量が増大し、地元の魚だけでは賄いきれなくなった。そこで、下関や長崎などの遠方から運んだ「グチ」という魚を使うことになる。「グチ」は独特な弾力があり、小田原かまぼこの特徴でもある「あし」と呼ばれる弾力を生み出した。戦後、技術の進歩によって冷凍すり身に変わっていき、小田原かまぼこも「グチ」の冷凍すり身を使うようになり「グチ」の使用量が全国一となった。  かまぼこの製造工程には「魚の身を取る」「水にさらす(洗う)」「身をする」という3つの工程があり、かまぼこづくりには水が欠かせない。小田原の水は軟水の中でも少し硬度が高く、ミネラル分が多い。これがかまぼこづくりに適している。水が変わると「さらしがきかない」という事が起こる。小田原の水はミネラル分が豊富な地下水だからこそ、余分な脂分と臭みを落とし、上品な魚の旨味だけを残したかまぼこづくりができる。鉄分やカルシウムなどミネラル分が豊富な箱根の豊かな伏流水が重要な役目を果たしている。まさに豊富な魚が獲れる相模湾と箱根の伏流水に恵まれた環境の恩恵は大きい。  小田原から箱根登山鉄道に乗り2つ目の「風祭」駅で降りると、改札を出た目の前に「かまぼこの里」がある。これは1865年創業の老舗かまぼこ企業・鈴廣の本社工場。かまぼこを中心に地元の食産物も販売しており、多くの来場者で賑わっている。中の一角には「かまぼこ博物

第18回 大阪府堺市      ~世界の料理人たちが絶賛する600年の歴史ある業務用刃物でシェア90%の堺打刃物

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 全国に20ある政令指定都市の一つに数えられる堺市。人口は約82万人。戦国時代に織田信長が支配した貿易都市である。堺は紀州・根来、近江・国友と並び鉄砲の三大生産地でもあり、火縄銃の火薬の原料となる硝石を堺を通じた貿易で手に入れ、鉄砲の生産に力を入れたことで知られている。その堺に世界中の料理人たちが絶賛しているものがある。包丁である。別名「堺打刃物」といい、業務用刃物の生産量では90%のシェアを占め、1982年(昭和57年)3月に伝統的工芸品として指定を受けている。  5世紀に仁徳天皇陵古墳の築造のため、鍬や鋤などの鉄製道具を作る職人集団が定住し、鍛冶技術が発達。その後、16世紀にポルトガルからタバコが伝わると、その鍛冶技術を生かして、タバコの葉を刻む「タバコ包丁」の製造が盛んとなり、徳川幕府から『堺極』という極印を入れて販売することが認められて全国に専売。結果、堺刃物が知れ渡りこれが現代につながって、世界の料理人が唸る切れ味鋭い料理用包丁がシェア90%を占めている。  堺刃物の特徴は、職人の手で素材となる軟鉄や鋼を真っ赤に熱して金槌で叩き延ばす『鍛造』という技法で作られる「打刃物」。叩くことで金属内部の組織を密にして強度と粘り強さを高め、極上の切れ味と耐久性、美しさを生み出すことにある。打刃物の包丁は『片刃構造』が基本で刃は鋭角で切れ味は鮮やか、食材の断面も美しい。食材の繊維や細胞膜を壊すことなく切れ、素材のうまみを中に閉じ込めることができる。これが世界の料理人たちから高く評価されている所以。欧州や中国、韓国、オーストラリアなど世界30を超える国と地域に輸出している。  堺刃物は「鍛造」「研ぎ」「柄付け」という大きく3つの工程から構成されており、分業制で各工程をそれぞれのプロの職人たちが手掛け、技術を高度に磨き上げることで、岐阜県関市や新潟県三条市といった他産地の追随を許さない最高品質を維持している。高級魚であるハモの小骨を切る「はも湯切包丁」やうどん・そばを切る「麺切り包丁」うなぎをさばく「ウナギ包丁」さらには製菓用の「菓子切り包丁」など様々な包丁がある。堺市内には市内20以上の工房が出品している「堺刃物ミュージアム」があり、海外からも多くの人々が訪れている。  堺には打刃物のみならず、シマノを中心とした自転車部品、昆布加工、線香、染め物の注染など多くの伝統産業が

第17回 北海道小樽市      〜レトロな雰囲気の街並みと歴史を感じさせるオルゴール発祥の街

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 北海道の中心地である札幌市の西隣に位置する小樽市。人口は約11万人。ガラス工芸やお寿司通りに代表されるが、明治時代、ロシアとの交易や石炭の積み出し港、ニシン漁の拠点として栄え、20の銀行が軒を連ねた『北のウオール街』として一世を風靡した街である。この街で昭和の戦後以降、レトロな雰囲気の街並みとその歴史や趣が合うことから、「オルゴール」の販売が始まりました。  オルゴールは、1796年にスイス・ジュネーブの時計師によって作られたが、日本には開国間もない頃に入って来た。鎖国をしていた幕府と唯一取引があったオランダ人が江戸の深川で見世物として公開したことが始まりである。生産の中心はスイスで、とても高価な品物だった。しかし、第二次世界大戦後、日本がこの流れを変えた。その発祥が小樽市である。技術的に難しいと言われたオルゴールのシリンダー製造を機械化による量産化を成功させ、当時、駐留していたアメリカ兵のお土産品として人気を博した。その後、世界中にマーケットを広げ、小樽のオルゴールが知られるようになったのです。  小樽市で「オルゴール堂」が設立されて日本最大のオルゴール専門店として注目を集めました後、1983年(昭和58年)には東京で、1985年(昭和60年)には山梨県清里でオルゴール博物館が開館。さらに全国の観光地でもオルゴール店が誕生し、日本でのオルゴールブームが始まりました。日本の台頭でスイスのメーカーは凋落し、今では世界シェアの90%を日本のメーカーが占めています。  小樽のオルゴール発祥として知られる「オルゴール堂」は、1912年(明治45年)から米穀商であった共成の本社屋を利用して始まり、今では小樽観光の定番として多くの観光客で賑わっています。小樽ではガラス工芸も盛んなことからガラス製のオルゴールや、お寿司通りとして知られる小樽には約120ものお寿司屋があることにちなみ、お寿司のオルゴールなども作られて販売されています。本館だけで種類は約3400、25000点以上のオルゴールが販売されています。この建物は1989年(平成元年)3月に小樽市の歴史的建造物として指定を受けており、建物前には蒸気時計が設置され、記念撮影のスポットとして大人気で、メルヘン交差点は多くの人々が訪れています。  最後に、小樽市には観光の定番として「小樽運河」が有名ですが、明治時代に小樽港は開拓の

第16回 静岡県静岡市     〜木型模型からプラスチックモデルへの素材転換で全国シェア80%のホビーの街

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 人口約68万人の静岡市。言わずと知れたお茶所だが、知る人ぞ知る伝統産業がある。プラモデルだ。静岡市はプラモデルメーカーが集積する街で、プラモデル出荷額が全国シェア80%と日本一で「模型の世界首都」と言われている。(出荷額は226億円)  静岡市は豊富な森林資源を持ち、もともと駿河竹千筋細工や駿河蒔絵などの木工業が盛んだった。1924年(大正13年)に静岡市で初の飛行機乗りである青嶋次郎が青島飛行機研究所を設立。1932年(昭和7年)に木型模型飛行機の製造販売が始まり、これが木型模型の原点でもある。  戦後の1950年代から外国産プラモデルが輸入去され始め、木型模型は押されてくるようになった。そこで、プラスチックへの素材転換を余儀なくされ、製造工程にも大きく影響した。スケールモデルと言って、自動車や飛行機などの縮尺物を中心に生産を拡大した。故にプラモデル産業が木型模型飛行機の製造が基礎となり、スロットレーシングカーやキャラキクター商品、スーパーカー、ガンダム、ミニ四駆などのヒット商品を生み出した。  しかし、昨今の少子化やスマホの普及による遊びの多様化によって、模型に触れる子供が減少。生産規模が縮小してきた。そこで危機感を持った静岡市は「静岡市プラモデル化計画」として、市内四か所に「プラモニュメント」を設置。「模型の世界首都・静岡」を打ち出していった。また、2011年(平成23年)には「静岡ホビースクエア」として情報発信基地を設け、模型メーカー各社の製品、歴史が詰まった伝統工芸品が楽しめる場を作った。  また、2018年(平成30年)からは、静岡市内の小学校で「プラモデル」を授業に取り入れ、「ものづくり教育推進事業」を実施。模型メーカー担当者と静岡大学教育学部の先生や学生が講師となって、市内の各小学校を回り出張授業を行うなどの活動をしています。  木型模型からプラモデルへ素材転換を行うにあたり、製造工程が大きく影響を受けたが、江戸時代から行われていた漆器や下駄、家具などの産業が集積しており、素材転換を可能にするための関連技術が集積されていたことから、プラモデル産業が隆盛を極めたと言っても過言ではないでしょう。世界から人々を集めようと、毎年5月には「静岡ホビーショー」が開催され、国内外から多くの来場者を集めています。   提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝

第15回 広島県福山市     ~絣の技術を受け継ぎ、世界が認めた高品質なデニムの生産量日本一

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  広島県第二の都市・福山市。人口は約46万人。江戸幕末期、黒船来航で世間が騒いだ時の老中首座・阿部正弘を輩出した街である。ここで世界が認めた高品質なデニムが作られている。その国内シェア実に7割。  始まりは絣にある。江戸時代、初代備後福山藩主・水野勝成が綿花の栽培を奨励。製織や染色が盛んで、江戸後期には日本三大絣の一つである「備後絣」が特産品となる。培われた厚手生地の織布技術や、藍染めなどの染色技術がデニム産地として発展する礎となった。昭和30年頃には日本最大の絣の産地となったが、時代の流れと共に絣の需要が減退した。  そこで、隆盛を極めた備後絣の技術をデニムの製造へと受け継いだ。糸を紡ぐというところから、染め、織り、縫製、洗い加工などデニム製造の全ての工程が福山市内の企業で完結するに至った。半径10キロ圏内にデニム製造工程の企業が集まっている地域は世界的にもめずらしい。(現在、県境の岡山県井原市を含む6市2町で「備後圏域」を形成)  戦後、デニム生産に欠かせないロープ染色技術を開発したことで注文が集まるようになった。海外でもデニムは作られているが、同じ品番でも色や織布など精度にバラツキが多く、福山市内のデニム関連企業は「品質」にこだわりを見せている。結果、国内のみならず、海外のアパレル企業からも高い支持を受けている。紡績、染色、織布、加工などの工程を担う企業が集積し、国内外のファッションを支えているのである。  福山市はデニムだけでなく、様々なものづくりの街でもある。瀬戸内海に面していることから造船業や製鉄業も盛ん。他にも「福山琴」が作られている。江戸時代から作られ、最高級の桐乾燥材を使用し、1985年(昭和60年)に伝統的工芸品の指定を受けた。  また、「バラのまち・福山」としても知られ、戦後の復興に向けて市民と行政が一体となってまちづくりに取り組んだ結果、2016年に市制100周年を迎えた際、「100万本のバラのまち・福山」を実現した。5月21日は市の条例で「バラの日」とされている。  提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)                       こちらのサイトもご覧ください。                                伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』      事業承継のセミナ