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第18回 大阪府堺市      ~世界の料理人たちが絶賛する600年の歴史ある業務用刃物でシェア90%の堺打刃物

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 全国に20ある政令指定都市の一つに数えられる堺市。人口は約82万人。戦国時代に織田信長が支配した貿易都市である。堺は紀州・根来、近江・国友と並び鉄砲の三大生産地でもあり、火縄銃の火薬の原料となる硝石を堺を通じた貿易で手に入れ、鉄砲の生産に力を入れたことで知られている。その堺に世界中の料理人たちが絶賛しているものがある。包丁である。別名「堺打刃物」といい、業務用刃物の生産量では90%のシェアを占め、1982年(昭和57年)3月に伝統的工芸品として指定を受けている。  5世紀に仁徳天皇陵古墳の築造のため、鍬や鋤などの鉄製道具を作る職人集団が定住し、鍛冶技術が発達。その後、16世紀にポルトガルからタバコが伝わると、その鍛冶技術を生かして、タバコの葉を刻む「タバコ包丁」の製造が盛んとなり、徳川幕府から『堺極』という極印を入れて販売することが認められて全国に専売。結果、堺刃物が知れ渡りこれが現代につながって、世界の料理人が唸る切れ味鋭い料理用包丁がシェア90%を占めている。  堺刃物の特徴は、職人の手で素材となる軟鉄や鋼を真っ赤に熱して金槌で叩き延ばす『鍛造』という技法で作られる「打刃物」。叩くことで金属内部の組織を密にして強度と粘り強さを高め、極上の切れ味と耐久性、美しさを生み出すことにある。打刃物の包丁は『片刃構造』が基本で刃は鋭角で切れ味は鮮やか、食材の断面も美しい。食材の繊維や細胞膜を壊すことなく切れ、素材のうまみを中に閉じ込めることができる。これが世界の料理人たちから高く評価されている所以。欧州や中国、韓国、オーストラリアなど世界30を超える国と地域に輸出している。  堺刃物は「鍛造」「研ぎ」「柄付け」という大きく3つの工程から構成されており、分業制で各工程をそれぞれのプロの職人たちが手掛け、技術を高度に磨き上げることで、岐阜県関市や新潟県三条市といった他産地の追随を許さない最高品質を維持している。高級魚であるハモの小骨を切る「はも湯切包丁」やうどん・そばを切る「麺切り包丁」うなぎをさばく「ウナギ包丁」さらには製菓用の「菓子切り包丁」など様々な包丁がある。堺市内には市内20以上の工房が出品している「堺刃物ミュージアム」があり、海外からも多くの人々が訪れている。  堺には打刃物のみならず、シマノを中心とした自転車部品、昆布加工、線香、染め物の注染など多くの伝統産業が

第17回 北海道小樽市      〜レトロな雰囲気の街並みと歴史を感じさせるオルゴール発祥の街

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 北海道の中心地である札幌市の西隣に位置する小樽市。人口は約11万人。ガラス工芸やお寿司通りに代表されるが、明治時代、ロシアとの交易や石炭の積み出し港、ニシン漁の拠点として栄え、20の銀行が軒を連ねた『北のウオール街』として一世を風靡した街である。この街で昭和の戦後以降、レトロな雰囲気の街並みとその歴史や趣が合うことから、「オルゴール」の販売が始まりました。  オルゴールは、1796年にスイス・ジュネーブの時計師によって作られたが、日本には開国間もない頃に入って来た。鎖国をしていた幕府と唯一取引があったオランダ人が江戸の深川で見世物として公開したことが始まりである。生産の中心はスイスで、とても高価な品物だった。しかし、第二次世界大戦後、日本がこの流れを変えた。その発祥が小樽市である。技術的に難しいと言われたオルゴールのシリンダー製造を機械化による量産化を成功させ、当時、駐留していたアメリカ兵のお土産品として人気を博した。その後、世界中にマーケットを広げ、小樽のオルゴールが知られるようになったのです。  小樽市で「オルゴール堂」が設立されて日本最大のオルゴール専門店として注目を集めました後、1983年(昭和58年)には東京で、1985年(昭和60年)には山梨県清里でオルゴール博物館が開館。さらに全国の観光地でもオルゴール店が誕生し、日本でのオルゴールブームが始まりました。日本の台頭でスイスのメーカーは凋落し、今では世界シェアの90%を日本のメーカーが占めています。  小樽のオルゴール発祥として知られる「オルゴール堂」は、1912年(明治45年)から米穀商であった共成の本社屋を利用して始まり、今では小樽観光の定番として多くの観光客で賑わっています。小樽ではガラス工芸も盛んなことからガラス製のオルゴールや、お寿司通りとして知られる小樽には約120ものお寿司屋があることにちなみ、お寿司のオルゴールなども作られて販売されています。本館だけで種類は約3400、25000点以上のオルゴールが販売されています。この建物は1989年(平成元年)3月に小樽市の歴史的建造物として指定を受けており、建物前には蒸気時計が設置され、記念撮影のスポットとして大人気で、メルヘン交差点は多くの人々が訪れています。  最後に、小樽市には観光の定番として「小樽運河」が有名ですが、明治時代に小樽港は開拓の

第16回 静岡県静岡市     〜木型模型からプラスチックモデルへの素材転換で全国シェア80%のホビーの街

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 人口約68万人の静岡市。言わずと知れたお茶所だが、知る人ぞ知る伝統産業がある。プラモデルだ。静岡市はプラモデルメーカーが集積する街で、プラモデル出荷額が全国シェア80%と日本一で「模型の世界首都」と言われている。(出荷額は226億円)  静岡市は豊富な森林資源を持ち、もともと駿河竹千筋細工や駿河蒔絵などの木工業が盛んだった。1924年(大正13年)に静岡市で初の飛行機乗りである青嶋次郎が青島飛行機研究所を設立。1932年(昭和7年)に木型模型飛行機の製造販売が始まり、これが木型模型の原点でもある。  戦後の1950年代から外国産プラモデルが輸入去され始め、木型模型は押されてくるようになった。そこで、プラスチックへの素材転換を余儀なくされ、製造工程にも大きく影響した。スケールモデルと言って、自動車や飛行機などの縮尺物を中心に生産を拡大した。故にプラモデル産業が木型模型飛行機の製造が基礎となり、スロットレーシングカーやキャラキクター商品、スーパーカー、ガンダム、ミニ四駆などのヒット商品を生み出した。  しかし、昨今の少子化やスマホの普及による遊びの多様化によって、模型に触れる子供が減少。生産規模が縮小してきた。そこで危機感を持った静岡市は「静岡市プラモデル化計画」として、市内四か所に「プラモニュメント」を設置。「模型の世界首都・静岡」を打ち出していった。また、2011年(平成23年)には「静岡ホビースクエア」として情報発信基地を設け、模型メーカー各社の製品、歴史が詰まった伝統工芸品が楽しめる場を作った。  また、2018年(平成30年)からは、静岡市内の小学校で「プラモデル」を授業に取り入れ、「ものづくり教育推進事業」を実施。模型メーカー担当者と静岡大学教育学部の先生や学生が講師となって、市内の各小学校を回り出張授業を行うなどの活動をしています。  木型模型からプラモデルへ素材転換を行うにあたり、製造工程が大きく影響を受けたが、江戸時代から行われていた漆器や下駄、家具などの産業が集積しており、素材転換を可能にするための関連技術が集積されていたことから、プラモデル産業が隆盛を極めたと言っても過言ではないでしょう。世界から人々を集めようと、毎年5月には「静岡ホビーショー」が開催され、国内外から多くの来場者を集めています。   提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝

第15回 広島県福山市     ~絣の技術を受け継ぎ、世界が認めた高品質なデニムの生産量日本一

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  広島県第二の都市・福山市。人口は約46万人。江戸幕末期、黒船来航で世間が騒いだ時の老中首座・阿部正弘を輩出した街である。ここで世界が認めた高品質なデニムが作られている。その国内シェア実に7割。  始まりは絣にある。江戸時代、初代備後福山藩主・水野勝成が綿花の栽培を奨励。製織や染色が盛んで、江戸後期には日本三大絣の一つである「備後絣」が特産品となる。培われた厚手生地の織布技術や、藍染めなどの染色技術がデニム産地として発展する礎となった。昭和30年頃には日本最大の絣の産地となったが、時代の流れと共に絣の需要が減退した。  そこで、隆盛を極めた備後絣の技術をデニムの製造へと受け継いだ。糸を紡ぐというところから、染め、織り、縫製、洗い加工などデニム製造の全ての工程が福山市内の企業で完結するに至った。半径10キロ圏内にデニム製造工程の企業が集まっている地域は世界的にもめずらしい。(現在、県境の岡山県井原市を含む6市2町で「備後圏域」を形成)  戦後、デニム生産に欠かせないロープ染色技術を開発したことで注文が集まるようになった。海外でもデニムは作られているが、同じ品番でも色や織布など精度にバラツキが多く、福山市内のデニム関連企業は「品質」にこだわりを見せている。結果、国内のみならず、海外のアパレル企業からも高い支持を受けている。紡績、染色、織布、加工などの工程を担う企業が集積し、国内外のファッションを支えているのである。  福山市はデニムだけでなく、様々なものづくりの街でもある。瀬戸内海に面していることから造船業や製鉄業も盛ん。他にも「福山琴」が作られている。江戸時代から作られ、最高級の桐乾燥材を使用し、1985年(昭和60年)に伝統的工芸品の指定を受けた。  また、「バラのまち・福山」としても知られ、戦後の復興に向けて市民と行政が一体となってまちづくりに取り組んだ結果、2016年に市制100周年を迎えた際、「100万本のバラのまち・福山」を実現した。5月21日は市の条例で「バラの日」とされている。  提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)                       こちらのサイトもご覧ください。                                伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』      事業承継のセミナ

第14回 佐賀県佐賀市     〜有明海の恩恵を受けた高品質な佐賀海苔で17年連続販売枚数・金額が日本一

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 幕末に「薩長土肥」の一角を占めた肥前佐賀。現在の佐賀県。県庁所在地の佐賀市は人口約23万人。ここは地の利を生かした名産がある。佐賀海苔である。現在、17年連続で海苔の販売枚数及び金額で日本一となっている。  海苔と言えばやはり、おにぎりである。海苔はおいしいおにぎりには欠かせない。海苔は1500年前から食べられていたという日本人の食生活には欠かすことのできないものだ。収穫量も日本全体で720万トンのうち、佐賀海苔は180万トンで、全体の4分の1を占めている。(有明海は佐賀県のみならず、福岡県と熊本県にも隣接していることから、九州全体で約50%を占めている。)  この佐賀海苔のおいしさの秘訣は、やはり有明海という地の利を生かした点がはずせない。有明海は佐賀県の南部に位置し、6メートルという日本一の干満差で海水の栄養分と太陽の光を交互にたっぷりと吸収していることが大きい。また、徹底した養殖管理を漁家や漁連、佐賀県、大学の研究者が一体となって、1968年(昭和43年)に「集団管理方式」を取り入れ、日々変化する塩分や水温のデータなど海苔養殖の情報を提供している。  佐賀市での本格的な海苔づくりは1953年(昭和28年)頃から始まり、海苔づくりに最適な有明海の自然環境から生まれている。有明海には適度な潮流があり、大潮時に上げ潮と下げ潮の流向はほぼ逆向きに変わる。潮が川の真水と外洋の海水を混ぜ合わせ、海苔養殖に適度な塩分濃度に調合してくれる。また、養分や酸素を供給し、有明海の環境をも浄化しているのです。このような恵まれた自然環境と地の利を生かして佐賀海苔は日本を代表する高品質な商品の一つとなっている。以前、NHKあさイチで取り上げられていたが、佐賀県がコスメに力を入れており、ツバキ油の原料にこの佐賀海苔が使われており、東京などでかなり好評と言われている。  冒頭にも触れているが、佐賀県は幕末に明治維新を為し「佐賀の七賢人」を輩出している。これは幕末の名君・鍋島直正が人材教育に注力した賜物と言える。また、アームストロング砲という大砲を作り上げ、旧幕府との戊辰戦争に決着をつけた。あの薩摩藩よりも先んじて軍事力を強化した雄藩でもあり、最先端の技術力を持って明治維新に大きな役割を果たし、日本の近代化に大きく貢献している。    提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継

第13回 愛媛県宇和島市    〜恵まれた環境適地と県の事業化政策でつかんだ真珠王国

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 世界最古の宝石と言われる真珠。歴史を紐解くと、古代日本はアコヤ真珠の一大産地でもあって、真珠を中国への朝貢品として使用するなど、日本最古の輸出品の一つでもありました。その後、マルコポーロが『東方見聞録』の中で、日本が黄金と真珠の国であることを紹介し、ヨーロッパ人が日本真珠を認知して、シャネルやディオールなど海外ブランドが真珠のネックレスやドレスに真珠を使用して販売するに至ったのです。  日本で真珠と聞くと、1893年にミキモトの創業者・御木本幸吉氏が世界で初めて真珠の養殖に成功し、その後の躍進は周知のとおりですが、現在、国内真珠養殖の約4割を占め生産量トップに君臨しているのが人口は約7万人の愛媛県宇和島市で、真珠王国とも言われています。  真珠の養殖には、養殖期間が1年の『当年もの』と、もう1年ほど海の中で育てたものを11月から12月に取り出す『越しもの』があり、宇和島市では2年養殖の『越しもの』が主流。『越しもの』は1年ものと比べると厚くなり、良いものが出来る可能性が高いのが理由です。  宇和島市内にある宇和海は、真珠の生産に最適なリアス式海岸に囲まれた美しい海であることや、黒潮の流れ込む温暖で良質な漁場、そして養殖真珠に使用する母貝の日本一の産地であって、そのまま母貝が使えることなどから、愛媛県が1960年代から積極的に養殖真珠の事業に乗り出し、現在の地位を占めるに至っています。  ここで逸話を一つ。戦後、進駐軍の将校たちが日本の養殖真珠を気に入り、GHQ(連合国総司令部)が国内販売を禁止する一方で、GHQに納入する命令が出されるなど、軍隊での売店でも飛ぶように売れた。しかし、1948年(昭和23年)に国内販売は解禁。海外への輸出も許可されると、外貨を獲得するトップクラスの商品となり、養殖真珠は「輸出の花形」として持てはやされたのです。  かつて真珠の養殖でリードしていた三重県の業者が、漁場の過密化と真珠貝の大量死、品質の低下などを理由として、昭和30年頃に宇和島市に流入してきたことも宇和島市の真珠事業が発展をしたことも否めません。結果、1974年(昭和49年)に三重県を抜き、養殖真珠の生産量が日本一となり、その後においてトップを君臨続けています。  ただ、宇和島市の養殖真珠事業の全てが順風満帆ではなく、1994年(平成6年)には大分県との境である豊後水道でア

第12回 石川県金沢市      〜加賀百万石の祖・前田利家公の意向により始まった日本一の金箔銀箔(金沢箔)

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 豪華絢爛なイメージがある加賀百万石の代名詞・金沢市。人口45万人。北陸地方随一の都市である。陶芸、漆、木工、金工、染織などの分野においては、重要無形文化財保持者(人間国宝)の数が東京や京都を凌ぐ日本を代表する工芸都市でもある。  金沢こと加賀百万石の祖・前田利家が現代に残した伝統産業がある。金沢箔である。利家が1593年に朝鮮戦争での陣中から、加賀に送られてきた金箔と銀箔の製造を命じた文書が金沢に残っており、利家死去後、江戸時代初期に多くの箔打ち職人が金沢に招かれて金箔事業は栄えて行った。 しかし、最大の外様大名・加賀藩前田家に睨みを利かす徳川幕府は、金箔製造の取締りを開始し、17世紀末には金箔は江戸、銀箔は京都の箔屋以外には製造が許可されなくなった。  そこで、金沢では禁じられていない真鍮箔の製造や江戸や京都から購入していた金銀箔の打ち直しなどにより、製箔技術が伝えられてきた。その後、江戸時代後期に金箔打ちの公認を求める職人たちの運動によって、金沢藩の御用箔に限り金沢での製造が許可された。  明治時代に入ると製箔の統制はなくなり、幕府の庇護のもとで行われていた江戸での金箔作りは途絶え、金沢の高度な箔打ち技術や製箔に適した気候や水質などによる金沢箔の品質が全国に認められていった。その後、箔打機が完成すると金沢は金箔産地として発展し、現在では金箔は98%、銀箔は100%の全国生産高を誇っている。1977年(昭和52年)には通商産業省から伝統的工芸品の指定を受けた。  金沢箔には①酸化しない②変色しない③腐食しない、という3つの特徴があり、仏壇、金屏風、西陣織、漆器など多くの工芸品や美術品などに欠くことができない資材として広く活用されている。近年では、生活様式の変化に対応してインテリア用品、地酒、菓子などの食料品や化粧品までに幅広い用途に使われている。また、金箔は世界遺産の修復にも活用。1987年(昭和62年)には金閣寺で20万枚。日光東照宮では毎年の修復に2万枚が使用されている。  金箔をはじめとして、加賀友禅など多くの伝統工芸品が生み出されている金沢は、徳川幕府から何かと言いがかりをつけられるなど、対応に苦慮してきた歴史がある。そこで、加賀藩二代藩主・利常は故意に鼻毛を伸ばしてバカ殿を演じ、徳川幕府を油断させて欺き、伝統工芸に注力して加賀藩としての力を蓄え、百万石