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第15回 広島県福山市     ~絣の技術を受け継ぎ、世界が認めた高品質なデニムの生産量日本一

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  広島県第二の都市・福山市。人口は約46万人。江戸幕末期、黒船来航で世間が騒いだ時の老中首座・阿部正弘を輩出した街である。ここで世界が認めた高品質なデニムが作られている。その国内シェア実に7割。  始まりは絣にある。江戸時代、初代備後福山藩主・水野勝成が綿花の栽培を奨励。製織や染色が盛んで、江戸後期には日本三大絣の一つである「備後絣」が特産品となる。培われた厚手生地の織布技術や、藍染めなどの染色技術がデニム産地として発展する礎となった。昭和30年頃には日本最大の絣の産地となったが、時代の流れと共に絣の需要が減退した。  そこで、隆盛を極めた備後絣の技術をデニムの製造へと受け継いだ。糸を紡ぐというところから、染め、織り、縫製、洗い加工などデニム製造の全ての工程が福山市内の企業で完結するに至った。半径10キロ圏内にデニム製造工程の企業が集まっている地域は世界的にもめずらしい。(現在、県境の岡山県井原市を含む6市2町で「備後圏域」を形成)  戦後、デニム生産に欠かせないロープ染色技術を開発したことで注文が集まるようになった。海外でもデニムは作られているが、同じ品番でも色や織布など精度にバラツキが多く、福山市内のデニム関連企業は「品質」にこだわりを見せている。結果、国内のみならず、海外のアパレル企業からも高い支持を受けている。紡績、染色、織布、加工などの工程を担う企業が集積し、国内外のファッションを支えているのである。  福山市はデニムだけでなく、様々なものづくりの街でもある。瀬戸内海に面していることから造船業や製鉄業も盛ん。他にも「福山琴」が作られている。江戸時代から作られ、最高級の桐乾燥材を使用し、1985年(昭和60年)に伝統的工芸品の指定を受けた。  また、「バラのまち・福山」としても知られ、戦後の復興に向けて市民と行政が一体となってまちづくりに取り組んだ結果、2016年に市制100周年を迎えた際、「100万本のバラのまち・福山」を実現した。5月21日は市の条例で「バラの日」とされている。  提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)                       こちらのサイトもご覧ください。                                伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』      事業承継のセミナ

第14回 佐賀県佐賀市     〜有明海の恩恵を受けた高品質な佐賀海苔で17年連続販売枚数・金額が日本一

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 幕末に「薩長土肥」の一角を占めた肥前佐賀。現在の佐賀県。県庁所在地の佐賀市は人口約23万人。ここは地の利を生かした名産がある。佐賀海苔である。現在、17年連続で海苔の販売枚数及び金額で日本一となっている。  海苔と言えばやはり、おにぎりである。海苔はおいしいおにぎりには欠かせない。海苔は1500年前から食べられていたという日本人の食生活には欠かすことのできないものだ。収穫量も日本全体で720万トンのうち、佐賀海苔は180万トンで、全体の4分の1を占めている。(有明海は佐賀県のみならず、福岡県と熊本県にも隣接していることから、九州全体で約50%を占めている。)  この佐賀海苔のおいしさの秘訣は、やはり有明海という地の利を生かした点がはずせない。有明海は佐賀県の南部に位置し、6メートルという日本一の干満差で海水の栄養分と太陽の光を交互にたっぷりと吸収していることが大きい。また、徹底した養殖管理を漁家や漁連、佐賀県、大学の研究者が一体となって、1968年(昭和43年)に「集団管理方式」を取り入れ、日々変化する塩分や水温のデータなど海苔養殖の情報を提供している。  佐賀市での本格的な海苔づくりは1953年(昭和28年)頃から始まり、海苔づくりに最適な有明海の自然環境から生まれている。有明海には適度な潮流があり、大潮時に上げ潮と下げ潮の流向はほぼ逆向きに変わる。潮が川の真水と外洋の海水を混ぜ合わせ、海苔養殖に適度な塩分濃度に調合してくれる。また、養分や酸素を供給し、有明海の環境をも浄化しているのです。このような恵まれた自然環境と地の利を生かして佐賀海苔は日本を代表する高品質な商品の一つとなっている。以前、NHKあさイチで取り上げられていたが、佐賀県がコスメに力を入れており、ツバキ油の原料にこの佐賀海苔が使われており、東京などでかなり好評と言われている。  冒頭にも触れているが、佐賀県は幕末に明治維新を為し「佐賀の七賢人」を輩出している。これは幕末の名君・鍋島直正が人材教育に注力した賜物と言える。また、アームストロング砲という大砲を作り上げ、旧幕府との戊辰戦争に決着をつけた。あの薩摩藩よりも先んじて軍事力を強化した雄藩でもあり、最先端の技術力を持って明治維新に大きな役割を果たし、日本の近代化に大きく貢献している。    提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継

第13回 愛媛県宇和島市    〜恵まれた環境適地と県の事業化政策でつかんだ真珠王国

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 世界最古の宝石と言われる真珠。歴史を紐解くと、古代日本はアコヤ真珠の一大産地でもあって、真珠を中国への朝貢品として使用するなど、日本最古の輸出品の一つでもありました。その後、マルコポーロが『東方見聞録』の中で、日本が黄金と真珠の国であることを紹介し、ヨーロッパ人が日本真珠を認知して、シャネルやディオールなど海外ブランドが真珠のネックレスやドレスに真珠を使用して販売するに至ったのです。  日本で真珠と聞くと、1893年にミキモトの創業者・御木本幸吉氏が世界で初めて真珠の養殖に成功し、その後の躍進は周知のとおりですが、現在、国内真珠養殖の約4割を占め生産量トップに君臨しているのが人口は約7万人の愛媛県宇和島市で、真珠王国とも言われています。  真珠の養殖には、養殖期間が1年の『当年もの』と、もう1年ほど海の中で育てたものを11月から12月に取り出す『越しもの』があり、宇和島市では2年養殖の『越しもの』が主流。『越しもの』は1年ものと比べると厚くなり、良いものが出来る可能性が高いのが理由です。  宇和島市内にある宇和海は、真珠の生産に最適なリアス式海岸に囲まれた美しい海であることや、黒潮の流れ込む温暖で良質な漁場、そして養殖真珠に使用する母貝の日本一の産地であって、そのまま母貝が使えることなどから、愛媛県が1960年代から積極的に養殖真珠の事業に乗り出し、現在の地位を占めるに至っています。  ここで逸話を一つ。戦後、進駐軍の将校たちが日本の養殖真珠を気に入り、GHQ(連合国総司令部)が国内販売を禁止する一方で、GHQに納入する命令が出されるなど、軍隊での売店でも飛ぶように売れた。しかし、1948年(昭和23年)に国内販売は解禁。海外への輸出も許可されると、外貨を獲得するトップクラスの商品となり、養殖真珠は「輸出の花形」として持てはやされたのです。  かつて真珠の養殖でリードしていた三重県の業者が、漁場の過密化と真珠貝の大量死、品質の低下などを理由として、昭和30年頃に宇和島市に流入してきたことも宇和島市の真珠事業が発展をしたことも否めません。結果、1974年(昭和49年)に三重県を抜き、養殖真珠の生産量が日本一となり、その後においてトップを君臨続けています。  ただ、宇和島市の養殖真珠事業の全てが順風満帆ではなく、1994年(平成6年)には大分県との境である豊後水道でア

第12回 石川県金沢市      〜加賀百万石の祖・前田利家公の意向により始まった日本一の金箔銀箔(金沢箔)

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 豪華絢爛なイメージがある加賀百万石の代名詞・金沢市。人口45万人。北陸地方随一の都市である。陶芸、漆、木工、金工、染織などの分野においては、重要無形文化財保持者(人間国宝)の数が東京や京都を凌ぐ日本を代表する工芸都市でもある。  金沢こと加賀百万石の祖・前田利家が現代に残した伝統産業がある。金沢箔である。利家が1593年に朝鮮戦争での陣中から、加賀に送られてきた金箔と銀箔の製造を命じた文書が金沢に残っており、利家死去後、江戸時代初期に多くの箔打ち職人が金沢に招かれて金箔事業は栄えて行った。 しかし、最大の外様大名・加賀藩前田家に睨みを利かす徳川幕府は、金箔製造の取締りを開始し、17世紀末には金箔は江戸、銀箔は京都の箔屋以外には製造が許可されなくなった。  そこで、金沢では禁じられていない真鍮箔の製造や江戸や京都から購入していた金銀箔の打ち直しなどにより、製箔技術が伝えられてきた。その後、江戸時代後期に金箔打ちの公認を求める職人たちの運動によって、金沢藩の御用箔に限り金沢での製造が許可された。  明治時代に入ると製箔の統制はなくなり、幕府の庇護のもとで行われていた江戸での金箔作りは途絶え、金沢の高度な箔打ち技術や製箔に適した気候や水質などによる金沢箔の品質が全国に認められていった。その後、箔打機が完成すると金沢は金箔産地として発展し、現在では金箔は98%、銀箔は100%の全国生産高を誇っている。1977年(昭和52年)には通商産業省から伝統的工芸品の指定を受けた。  金沢箔には①酸化しない②変色しない③腐食しない、という3つの特徴があり、仏壇、金屏風、西陣織、漆器など多くの工芸品や美術品などに欠くことができない資材として広く活用されている。近年では、生活様式の変化に対応してインテリア用品、地酒、菓子などの食料品や化粧品までに幅広い用途に使われている。また、金箔は世界遺産の修復にも活用。1987年(昭和62年)には金閣寺で20万枚。日光東照宮では毎年の修復に2万枚が使用されている。  金箔をはじめとして、加賀友禅など多くの伝統工芸品が生み出されている金沢は、徳川幕府から何かと言いがかりをつけられるなど、対応に苦慮してきた歴史がある。そこで、加賀藩二代藩主・利常は故意に鼻毛を伸ばしてバカ殿を演じ、徳川幕府を油断させて欺き、伝統工芸に注力して加賀藩としての力を蓄え、百万石

第11回 岩手県盛岡市       〜多数の偉人を輩出した街が誇る400年の時を紡ぐ南部鉄器

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 「武士道」が世界的なベストセラーとなった元国連事務次長の故・新渡戸稲造氏、平民宰相として現代の政党政治の礎を築き内閣総理大臣を務めた故・原敬氏、その他にも元海軍大臣で内閣総理大臣も歴任した故・米内光政氏など、多くの偉人を輩出した街である人口約29万人の盛岡市。ここに400年の歴史を重ねてきた伝統産業がある。南部鉄器である。同じ岩手県南部の奥州市水沢にある南部鉄器とは歴史や趣が少し異なっている。(但し、水沢鋳物を含めて南部鉄器という総称を用いている。)  盛岡市の南部鉄器は、江戸時代初期に茶道を嗜む南部藩三代藩主・南部重直が、京都から釜師を招いて茶釜を作らせたのが始まりだと言われている。南部家庇護のもとにお抱えの釜師や鋳物師を切磋琢磨させながら、鉄器づくりが発展した。元々、盛岡には砂鉄や岩鉄などの良質な鉄の原料があり、市内を流れる北上川の川砂や粘土、漆、木炭など鋳物に必要な原料が豊富に産出された。これが南部鉄器が地場産業として栄えた大きな要因である。  南部鉄器は、国内のみならず海外からも高い評価を受けている。特に中国ではお茶の文化が根付いており、茶釜や鉄瓶を買い求めて現地に足を運んでいたようである。盛岡市の郊外に「手作り村」があり、そこには大型観光バスが駐車場に立ち並んである光景を目の当たりにしている。品質の高さや、使い手目線に立った造形が魅力的なようだ。また東南アジアやヨーロッパ諸国からも人気がある。  この南部鉄器も苦境の時代があった。戦時中は軍需品以外の製造が禁止され、存続の危機に陥ったこともある。当時の政府に陳情して少人数ではあるが生産することが許され、何とか南部鉄器という産業を守ることができたようだ。  その南部鉄器は、1975年(昭和50年)2月に当時の通商産業省から「伝統的工芸品」第1号として指定を受けている。盛岡市内には南部鉄器を使った街灯があり、街にも根付いている。市内には10軒の南部鉄器の工房があり、一つの製品を作るのに約2か月を要し、今では注文をすると3年待ちの状況らしく活況を呈している。それぞれの工房では持ち手以外の全工程を担う一貫生産をしており、分業制で作り大量生産にも対応できる水沢の南部鉄器とはこの点が異なる。  盛岡市内には、1902年創業の老舗企業「岩鋳」がテーマパーク型工場である「岩鋳鉄器館」を開設している。南部鉄器の製品を購入す

第10回 さいたま市岩槻区    〜ひな祭り・端午の節句など日本の文化を現代に伝えた岩槻の人形

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 商都の大宮、文教の浦和、その中間に位置する与野、これら三つの都市が2001年に合併し、さらに2005年には人形の岩槻が加わり、人口130万人を超える現在のさいたま市が誕生した。最後に加わった岩槻は、1457年に太田道灌が岩槻城を築いた5万5千石の城下町でもある。  その岩槻は人形の街として全国に知られている。始まりは江戸時代後期。城下町であった岩槻は日光御成街道の宿場町でもあった。元々、岩槻は桐の産地であり桐細工で有名だった。そこに日光東照宮の造営や修復にあたった工匠が住み着き、桐を使った箪笥が作られるようになった。桐粉が生じること、さらには良質な水にも恵まれて人形づくりが盛んになったと言われている。  岩槻の人形の特徴は、頭と目がやや大きくて丸顔で愛らしい作り、華やかな彩色が使われること、さらには人形の肌が滑らかで髪も人毛のような美しさにある。滑らかで美しい人形の肌は、膠(にかわ)と胡粉から作られ、髪に使われているのは生糸で人毛によく似た柔らかいものを使い、髪付師によって丁寧に作っている。  明治時代に入ると、五月人形などの岩槻の人形は生産が拡大し、国内有数の産地となって江戸時代の面影を伝えていった。1940年(昭和15年)には人形の生産は中止に追い込まれたものの、戦後は東京から人形職人が移住し、技術力がレベルアップ。宣伝広告活動も積極化して販路を全国に拡大させた。昭和の最期辺りでは、埼玉県の人形生産出荷額は国内の40%となり、うち岩槻の人形は70%を占め、人形は岩槻という地位を確立させた。  1978年(昭和53年)に「江戸木目込人形」が、さらに2007年(平成19年)には「岩槻人形」が経済産業省から伝統的工芸品の指定を受けている。岩槻は、五月人形や木目込人形、歌舞伎人形など、一つの産地で多様な人形の製造を手掛けているまさに人形の聖地といってよく、現代にひな祭りや端午の節句といった日本の文化を今に伝えてきたと言っても過言ではない。   提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)        こちらのサイトもご覧ください。                 伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』に     事業承継のセミナー・講演会を全国各地で開催しています         過去の開催実績はこちらをご覧ください。      LINE公

第9回 兵庫県三木市      〜天下人・秀吉による街の復興政策から始まり日本一に上り詰めた三木の金物

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 兵庫県の南東部にあり、東播磨に位置する三木市。人口約77000人。日本を代表する金物の街である。三木市が日本一の金物の街に発展した陰には、あの天下人・豊臣秀吉の存在がある。当時、三木市は別所氏によって統治されていた。そこに現れてきたのが秀吉である。1580年に秀吉は織田信長の命を受け、別所長治の居城・三木城を兵糧攻めで落城させた。その際、三木の街は秀吉によって寺や古い街並みが焼き払われ荒廃。その後に秀吉が三木の街の復興事業に着手。今の三木の街の礎を築いていった。  まず秀吉は、各地から大工職人を集め、彼らに必要な大工道具を作る鍛冶職人が増えて現在の発展につながっていく。復興が一段落すると大工職人は出稼ぎに出るようになり、持っていた大工道具が行く先々で評判となり、次に出向くときには品物として売りさばいていった。江戸時代後半、ノコギリ・カンナ・ノミのほかにハサミなどの刃物、ヤスリなどの生産品目も多くなっていく。1751年には、材料の仕入れや製品の販売に当たる仲買人が誕生し、その仲買人が大きくなって仲買問屋へと発展。1792年に「作屋」など5軒が仲買仲間を結成して運営を始めた。  三木の金物は主に大坂商人によって発展を遂げ、大坂中心の市場を形成した。1803年には江戸の炭屋七右衛門から引き合いを受け、江戸との取引が開始されて全国へと知られ、また、1880年(明治13年)頃からは、輸入され出した洋鉄や洋鋼を使い、製造工程の合理化で量産が可能となった。その結果、金物問屋だけでさばくことが困難となって直接、各地方へ出張販売し、ここから三木の金物は本格的に全国へ広がっていった。1945年(昭和20年)の第二次大戦終了後は、焼け野原と化した日本全国における復興事業で、大量の大工道具が必要とされて三木の金物の需要が急増。伝統的な大工道具のみならず、近代的な金物製品を生産販売する日本屈指の金物産地として発展し、日本一となった。  その三木の金物だが、1996年(平成8年)4月に「播州三木打刃物」として、経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けた。さらに2008年(平成20年)に三木金物は地域団体登録商標(地域ブランド)として認められた。1952年(昭和27年)から三木市では、毎年11月第1土曜日・日曜日の2日間、「三木金物まつり」が開催されている。市内外から約18万人の来場者を迎え