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第38回 沖縄県那覇市   〜沖縄返還から50年。琉球王国時代から600年続いている琉球泡盛は沖縄の誇り

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  沖縄県那覇市。人口約31万人。1972年(昭和47年)5月15日に太平洋戦争後、米国の統治下におかれていた沖縄が日本に返還された。今年2022年(令和4年)で50周年を迎える。この機に沖縄を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』が4月から放送されている。本土とは異なる沖縄独特の食文化と芭蕉布や三線(さんしん)などの伝統工芸を活かした演出が施されている。。  沖縄県には那覇市を中心として、かつての琉球王国時代から600年続いている『琉球泡盛』が沖縄県を代表する伝統産業の一つである。『琉球泡盛』は焼酎と同じ蒸留酒であり、黒麹とインディカ米(細長い米)であるタイ米を使用して、仕込みは1度だけの全麹仕込みで製造されているものである。タイ米を使用しているのは硬質でさらさらしていて粘り気が少なく、黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく米麴をつくりやすいためである。結果、香りや味わいに泡盛独特の風味を出している。ちなみに『琉球泡盛』は九州を代表する酒である焼酎の源流(ルーツ)ともなっている。  『琉球泡盛』の魅力的な点は、長期保存によって成分が熟成し味がまろやかに香り高くなることにある。一般に3年以上にわたって熟成された泡盛は、「古酒(く~す)」と呼ばれている。大切に管理していけば、100年や200年の古酒に育てることができるものである。実際、太平洋戦争によって多くの古酒が失われてしまったが、奇跡的に庭先に深く埋めていた古酒3本が残り、150年ものが最も古い泡盛と言われている。  『琉球泡盛』の歴史を紐解くと、1470年頃に現在の泡盛の原型とみられる酒が造られ、琉球王国時代に王府が管轄し、首里三箇と呼ばれた地域(赤田・崎山・鳥堀)限定でわずか40人の職人で泡盛造りが行われていた。『琉球泡盛』は外国の来賓をもてなす国酒として1853年には黒船で来航したペリー提督をもてなした記録がある。  『琉球泡盛』の名は沖縄県内で製造されていることを証明するもので、法律的には製造方法さえ守れば、沖縄県外でも泡盛の製造は可能である。差別化を図るために、2004年(平成16年)から表示に関する取り決めがなされた。ただし、アルコール度数が45度以下が条件となっている。この年に記録した27,688キロリットルの出荷量をピークに出荷量は減少の一途を辿り、出荷額も299億円から半額程度の約150億円と売...

第37回 長野県松本市   〜大正末期に生産量日本一となり一世を風靡した300年続く松本家具

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 長野県松本市。人口が約24万人の国際会議観光都市に指定されている県内第二の都市である。1907年(明治40年)に松本市とされ、2007年(平成19年)に市制施行100周年を迎えている。エレキギターの生産が盛んで、「松本てまり」「松本姉様人形」「七夕人形」「松本押絵雛」など民芸とクラフトの街としても知られており、国宝松本城を擁した観光地である。また、松本城を筆頭に旧開智学校などの歴史的建造物が多く保存されている。  松本市は、空気が乾燥して風通しが良く木材の乾燥に適しており、家具作りに最適な場所が要因で、当時すでに城下町として栄えていた安土桃山時代から家具の生産が盛んな土地柄だ。松本家具の主要材料であるミズメ桜(梓の木)は、硬くて粘り強い家具の用材として適した木で、その硬さゆえ、加工には機械を使わずに職人の手のみで作られている。良質な材料と鍛えぬかれた職人の技によって、美しく、かつ、堅牢な使うほどに味わい深い重みをもった家具として評価されている。  松本家具は「和」のしたたかさと「洋」のセンスがバランスよく調和するデザインに特徴があり、江戸時代から明治、大正、昭和とそれぞれの時代に応じた数多くの家具を生み出してきた。中でも、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興に伴い、家具の需要が高まり、大正時代の末期には家具の生産量が日本一となって一大家具産地を築き、一世を風靡したこともある。  しかし、太平洋戦争が始まると一時、生産が中止に追い込まれた。産地衰退の危機を救うため、戦後の1948年(昭和23年)に、池田三四郎が中心となって民芸運動に参加して木工産業の復興を図った。家具と言えば、福岡県大川市や北海道旭川市、岐阜県高山市などが家具産地として知られているが、松本家具も知る人ぞ知る存在で、1976年(昭和51年)に当時の通商産業省から家具部門としては全国で最初の伝統的工芸品の指定を受けており、300年以上の歴史をもっている。  最後に、松本市の観光名所である国宝松本城について。松本城は姫路城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)、松江城(島根県)、犬山城(愛知県)と並び国宝5城の一つで、1930年(昭和5年)に史跡指定され、1936年(昭和11年)に重要文化財として指定された。その後、戦災や火災を免れ、新たに制定された文化財保護法によって、1952年(昭和27年...

第36回 宮城県仙台市   〜グルメ武将・独眼竜伊達政宗公が現代に残した400年の歴史ある仙台味噌

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 宮城県仙台市。人口約106万人を擁する東北地方最大の都市で、言わずと知れた牛タンで有名な街である。仙台の街の基礎を作ったのは、あの独眼竜で知られた伊達政宗公だが、グルメ好きでも知られた戦国武将でもある。その名残りで以後400年にわたり現代に残されている伝統産業がある。仙台味噌だ。  仙台味噌は、政宗公が1601年(慶長6年)に仙台城を築城した際、その城下に「御塩噌蔵」(おえんそぐら)を設置したことに始まる。この「御塩噌蔵」は日本で最初の味噌工場とも言われた大規模な味噌の醸造設備である。仙台味噌は米を使い、大豆の比率が他の地域産に比べて高いのが特徴で、発酵熟成することによって、味は濃厚で深い旨味、辛口の赤味噌となり、出汁いらずで味噌汁ができると評判な味噌である。  この仙台味噌は江戸時代に繁盛している。政宗公の後継者・二代藩主である忠宗公の頃から、江戸・大井にあった仙台藩下屋敷においても「御塩噌蔵」を設け、本格的に味噌づくりを行っている。ここで作られた赤味噌は江戸で評判となり、「仙台味噌」の名が知られるところとなった。そのためか、大井の下屋敷は「味噌屋敷」とも言われたようである。その後、仙台味噌は明治時代に入っても東京の街で積極的に売られ、一世を風靡した。  仙台味噌は、第二次大戦中には配給味噌の基準製法となったこともあり、関東から東北地方にかけて圧倒的なシェアを有するまでになった。だが戦後において、長野で誕生した信州味噌の製造法が関東地方で普及したことによって、徐々に衰退していった。しかし現代でも仙台味噌は、赤味噌を代表するブランドの一つで、その名が全国に知られている。地元・仙台市内では現在でも6社の企業が伝統ある仙台味噌づくりを続けている。  味噌には米味噌・麦味噌・豆味噌という3つの種類があり、かつ、赤味噌や白味噌という色による分類がある。政宗公が現代に残した仙台味噌は米味噌で長期熟成の赤味噌、辛口にあたる。京都の白味噌が5~7%、信州味噌が10~12%に対して仙台味噌は、11~13%という塩分量と言われ、辛口と言われる所以である。  仙台の街の基礎を築いた政宗公であるが、戦いのみならず、茶道や能などにも勤しんだ教養人でもあった。また、同時にグルメ好きでもある。その影響から仙台味噌が生まれたと言っても過言ではない。政宗公は味噌だけでなく、製塩業や米づく...

第35回 埼玉県行田市   〜大ヒットドラマ『陸王』を生んだ江戸時代中期から300年続いている日本一の行田足袋

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 埼玉県行田市。人口は約77,000人で埼玉県名発祥の地でもある。また、「半沢直樹」や「下町ロケット」「ノーサイドゲーム」の著者・池井戸潤氏の『陸王』の舞台ともなり、2017年10月から12月までTBS日曜劇場でドラマ化されたことは記憶に新しい。そのドラマでは足袋の製造技術をランニングシューズに応用していた。行田市は江戸時代中期から300年続いている日本を代表する足袋の一大産地である。  行田市の足袋の始まりは地の利にある。利根川と荒川という二大河川に挟まれた肥沃な大地に、二つの川の氾濫で堆積した砂室土や豊富な水、夏季の高温が絹や藍の栽培に適していた。これを原料として足袋づくりが始まったのである。1716年~1735年あたり、忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励した。株仲間がなく取引が自由に行えたことから、足袋づくりは盛んとなり、行田の足袋は全国に知られるようになっていった。軍需用の足袋の生産にも携わるなど、増大に生産された足袋を保管するための足袋蔵が江戸時代後期には建てられるなど地場産業として成長していった。その足袋蔵は昭和30年代前半まで建設が続けられたようである。現在でも足袋蔵が多く残っており、行田市の足袋の街の象徴ともなっている。  足袋の製造にはミシンが欠かせず、工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、明治時代には生産量が一段と増大した。昭和13年から14年には全国の生産量シェア80%を占め、名実ともに日本一の足袋の生産地となった。しかし、戦後の1954年(昭和29年)にはナイロン製の靴下が発売され足袋づくりに陰りが見られ、1958年(昭和33年)頃には行田市の足袋業者の廃業や転業が加速していった。それでも1972年(昭和47年)には40億円の出荷額、1999年(平成11年)には40%、2017年(平成29年)は35%の全国シュアを維持し、靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられている。その行田市の足袋は、2019年(令和元年)に『行田足袋』として経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けている。  行田市は、映画「のぼうの城」の舞台にもなった10万石の城下町でもある。市内にある忍城は関東七名城の一つで小田原城を支える支城でもあったが、1590年に豊臣秀吉の家臣・石田三成によって水攻めを敢行されるも、小田原城が開城するまで落城しなかった。湿地帯の地...

第34回 兵庫県伊丹市   〜江戸の人々から賞賛されたうまい酒の代名詞・伊丹諸白で伊丹市は清酒発祥の街

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大阪国際空港を擁する兵庫県伊丹市は人口約20万人。米大リーグで長く活躍し、現在はプロ野球の楽天イーグルスに在籍する田中将大投手の出身地でもある。1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に起きた阪神淡路大震災では壊滅的な被害を受けたが、見事な街づくりで復興がなされている。  伊丹市は清酒発祥の街として知られている。1600年(慶長5年)に山中新六幸元が伊丹市北部の鴻池で双白澄酒(伊丹諸白)を造ったことが始まりだと言われている。室町時代からあった段仕込みを改良して、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。それまでの濁り酒(どぶろく)から清酒を醸造する技術が確立され、国内において本格的に清酒が一般大衆にも流通することになった。  山中新六幸元は、出雲国尼子家の家臣で「山陰の麒麟児」ともあだ名された山中鹿介の長男であり、武士の身分を捨てて摂津国に落ち延び、醸造家として生きる道を選んだ。その幸元を始祖とする鴻池家が、濁り酒から清酒を作ることに成功したという伊丹市の記録が残っているという。  その鴻池家が作ったお酒は、殆どが江戸に運ばれて「下り酒」と称され多くの人々に飲まれた。伊丹の酒は賞賛され、うまい酒の代名詞となる。「丹醸(たんじょう)」と呼ばれた高品質なお酒は、銘酒番付でも上位を占め、将軍家の「御膳酒」となった。江戸での成功によって財をなした鴻池家は、その後、大阪に移り、豪商・鴻池家に発展した。  しかし、江戸時代後期、幕府による酒造業への統制が厳しくなり、多くの酒造産地が衰退や消滅をしていった。伊丹でも1666年(寛文6年)から領主となった近衛家による酒造業の保護育成と品質の良さから生き残りに成功し、日本一の酒造産地として発展していった。  隆盛を極めた伊丹の酒造業は、次第に瀬戸内海に面し海運に適していた灘に江戸でのシェアを奪われ始め、幕末から明治にかけて大きく衰退した。現在、伊丹市内において酒造業を営んでいるのは、「白雪」の小西酒造と「老松」の伊丹老松酒造の2社だけとなった。しかし、400年の伝統と革新の清酒が今でも作り続けられている。  最後に、「伊丹諸白」は2020年(令和2年)6月に文化庁から日本遺産に認定された。かつて日本一の生産地であったことと、清酒発祥の地であることが伊丹市にとって誇りであると言っても過...

第33回 愛知県岡崎市   〜75歳まで生きた徳川家康を天下人に導いた長寿の秘訣・岡崎の八丁味噌

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 人口が約38万人の愛知県岡崎市。周知のとおり、あの徳川家康の生まれ故郷である。名将と呼ばれた武田信玄が53歳。その好敵手・上杉謙信は49歳。家康と同盟を組んだ織田信長も49歳。これらに比べて家康は享年75歳。家康が60歳にして天下人になり得た要因として長寿であったことが挙げられる。その家康がよく食していたものが、岡崎市の名産である八丁味噌だ。  八丁味噌の始まりは、約700年前に遡る。岡崎城から西へ八丁(約870M)の八帖町で作られてきた濃くて深い味わいが特徴の豆味噌である。大豆のみで大豆麹を造り、塩と水と一緒に木桶に仕込んでいき、水を少量しか使わない製法だ。普通の味噌に比べ、体を綺麗にしてくれる物質を多く含み、抗酸化作用や腸内環境を整えるなど、効果がある味噌である。  八丁味噌が作られている岡崎市八帖町は、東海道と矢作川の水運が交わる水陸交通の要衝であり、大豆や塩を入手しやすく、また作られた八丁味噌を出荷するのに適した地の利に恵まれた土地であった。保存性に優れていたため、三河武士の兵糧として岡崎藩に保護され、藩御用達の味噌ともされた。江戸時代には街道を往来する参勤交代やお伊勢参りの旅人を通じて、八丁味噌が全国に知られていった。  八丁味噌は職人が手で玉石を山のように積み上げて重石とし、二夏二冬以上という長期間にわたって熟成させている。桶一杯の味噌は約6トン、積み上げる石の山は約3トン、時間と手間がかかって大量生産ができない。薄暗い蔵には高さ2Mの大きな木桶、さらに3トンもの重石が円すい状に高々と積まれている。重いもので1個50kg以上もあり、地震でも崩れないほど、隙間なくガッチリと組めるようになるまで7~8年修行が必要な作業だという。積まれる重石は、塩分やうまみを桶全体に均一に回す役目があり、2年以上かけて熟成させるとまろやかな味わい深い味噌が仕上がっていく。  現在、この八丁味噌を作っているのは、1333年創業の蔵元「まるや八丁味噌」と1645年創業の「カクキュー八丁味噌」の2社のみ。この2社は旧東海道をはさんで南と北に位置しており、切磋琢磨しながら伝統の技と味を守りおいしい味噌が作られてきたという。  最後に『人間50年』と言われた時代において、信玄をはじめとした強者たちが50歳前後にしてこの世を去って行った中、天下分け目の関ケ原を制して60歳にして...

第32回 岡山県倉敷市   〜ジーンズだけではない。100年続いている全国シェアが70%の学生服もあった

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 岡山県倉敷市。人口約48万人の県内第2位の都市である。倉敷市と言えば、白壁の美観地区が観光地として知られている。また、知る人ぞ知るジーンズ発祥の地でもある。街には「児島ジーンズストリート」というジーンズショップが並ぶ通りがあり、多くの観光客で賑わっている。しかしながら、倉敷市のものづくりはジーンズだけではない。全国シェア70%を誇る学生服の街でもある。大小約30社ほどの学生服メーカーが児島地区にはある。  倉敷市はジーンズや学生服などの繊維産業が盛んであるが、その理由として綿花の栽培が挙げられる。岡山県は晴れの国と言われるとおり、雨が非常に少ないことと、中でも児島地区は干拓された土地が中心で塩気が多く、コメづくりには不向きな土地柄だった。そのため、塩気に強い綿花の栽培に力を入れたことが、ジーンズや学生服などのアパレル製品の製造に発展した。  倉敷市での学生服づくりは1918年(大正7年)。児島の角南周吉が始めたとされており、2018年(平成30年)に100年を迎えた。大正時代はむしろ足袋の生産で日本一となっていたが、昭和になると服装が洋装化されて需要は減少。足袋の裁断や縫製の技術がそのまま学生服の製造に活用されて生産が盛んになったという。第二次世界大戦前後は、学生服の製造は縮小したが、1947年(昭和22年)に教育基本法と学校教育法が制定されて、学生服の製造が再開された。合成繊維の開発や高度経済成長の波に乗り、学生服の生産量はさらに拡大し、1963年(昭和38年)には1006万着と史上最高を記録した。  学生服は贅沢品で一部の富裕層しか普及しなかったが、量産が始まって庶民にも普及したことで全国的に広がっていった。そして、最盛期の1980年(昭和55年)には製造出荷数を1222万着までに伸ばしていった。しかし、その後、少子化の影響もあって、2014年(平成26年)には590万着までに減少した。そのため、学生服を製造する業者の数が廃業や合併で減少。業界では生き残りをかけて販売方法を模索している。  学生服の製造で代表的な企業として「カンコー学生服」の名で知られる「菅公学生服」がる。社名が学問の神様と言われる「菅原道真」が由来となっている。本社は岡山市に移転しているものの、発祥は倉敷市児島である。その他にトンボや明石スクールユニフォームカンパニーなどが頑張ってい...