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第13回 愛媛県宇和島市    〜恵まれた環境適地と県の事業化政策でつかんだ真珠王国

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 世界最古の宝石と言われる真珠。歴史を紐解くと、古代日本はアコヤ真珠の一大産地でもあって、真珠を中国への朝貢品として使用するなど、日本最古の輸出品の一つでもありました。その後、マルコポーロが『東方見聞録』の中で、日本が黄金と真珠の国であることを紹介し、ヨーロッパ人が日本真珠を認知して、シャネルやディオールなど海外ブランドが真珠のネックレスやドレスに真珠を使用して販売するに至ったのです。  日本で真珠と聞くと、1893年にミキモトの創業者・御木本幸吉氏が世界で初めて真珠の養殖に成功し、その後の躍進は周知のとおりですが、現在、国内真珠養殖の約4割を占め生産量トップに君臨しているのが人口は約7万人の愛媛県宇和島市で、真珠王国とも言われています。  真珠の養殖には、養殖期間が1年の『当年もの』と、もう1年ほど海の中で育てたものを11月から12月に取り出す『越しもの』があり、宇和島市では2年養殖の『越しもの』が主流。『越しもの』は1年ものと比べると厚くなり、良いものが出来る可能性が高いのが理由です。  宇和島市内にある宇和海は、真珠の生産に最適なリアス式海岸に囲まれた美しい海であることや、黒潮の流れ込む温暖で良質な漁場、そして養殖真珠に使用する母貝の日本一の産地であって、そのまま母貝が使えることなどから、愛媛県が1960年代から積極的に養殖真珠の事業に乗り出し、現在の地位を占めるに至っています。  ここで逸話を一つ。戦後、進駐軍の将校たちが日本の養殖真珠を気に入り、GHQ(連合国総司令部)が国内販売を禁止する一方で、GHQに納入する命令が出されるなど、軍隊での売店でも飛ぶように売れた。しかし、1948年(昭和23年)に国内販売は解禁。海外への輸出も許可されると、外貨を獲得するトップクラスの商品となり、養殖真珠は「輸出の花形」として持てはやされたのです。  かつて真珠の養殖でリードしていた三重県の業者が、漁場の過密化と真珠貝の大量死、品質の低下などを理由として、昭和30年頃に宇和島市に流入してきたことも宇和島市の真珠事業が発展をしたことも否めません。結果、1974年(昭和49年)に三重県を抜き、養殖真珠の生産量が日本一となり、その後においてトップを君臨続けています。  ただ、宇和島市の養殖真珠事業の全てが順風満帆ではなく、1994年(平成6年)には大分県との境である豊後水道でア

第12回 石川県金沢市      〜加賀百万石の祖・前田利家公の意向により始まった日本一の金箔銀箔(金沢箔)

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 豪華絢爛なイメージがある加賀百万石の代名詞・金沢市。人口45万人。北陸地方随一の都市である。陶芸、漆、木工、金工、染織などの分野においては、重要無形文化財保持者(人間国宝)の数が東京や京都を凌ぐ日本を代表する工芸都市でもある。  金沢こと加賀百万石の祖・前田利家が現代に残した伝統産業がある。金沢箔である。利家が1593年に朝鮮戦争での陣中から、加賀に送られてきた金箔と銀箔の製造を命じた文書が金沢に残っており、利家死去後、江戸時代初期に多くの箔打ち職人が金沢に招かれて金箔事業は栄えて行った。 しかし、最大の外様大名・加賀藩前田家に睨みを利かす徳川幕府は、金箔製造の取締りを開始し、17世紀末には金箔は江戸、銀箔は京都の箔屋以外には製造が許可されなくなった。  そこで、金沢では禁じられていない真鍮箔の製造や江戸や京都から購入していた金銀箔の打ち直しなどにより、製箔技術が伝えられてきた。その後、江戸時代後期に金箔打ちの公認を求める職人たちの運動によって、金沢藩の御用箔に限り金沢での製造が許可された。  明治時代に入ると製箔の統制はなくなり、幕府の庇護のもとで行われていた江戸での金箔作りは途絶え、金沢の高度な箔打ち技術や製箔に適した気候や水質などによる金沢箔の品質が全国に認められていった。その後、箔打機が完成すると金沢は金箔産地として発展し、現在では金箔は98%、銀箔は100%の全国生産高を誇っている。1977年(昭和52年)には通商産業省から伝統的工芸品の指定を受けた。  金沢箔には①酸化しない②変色しない③腐食しない、という3つの特徴があり、仏壇、金屏風、西陣織、漆器など多くの工芸品や美術品などに欠くことができない資材として広く活用されている。近年では、生活様式の変化に対応してインテリア用品、地酒、菓子などの食料品や化粧品までに幅広い用途に使われている。また、金箔は世界遺産の修復にも活用。1987年(昭和62年)には金閣寺で20万枚。日光東照宮では毎年の修復に2万枚が使用されている。  金箔をはじめとして、加賀友禅など多くの伝統工芸品が生み出されている金沢は、徳川幕府から何かと言いがかりをつけられるなど、対応に苦慮してきた歴史がある。そこで、加賀藩二代藩主・利常は故意に鼻毛を伸ばしてバカ殿を演じ、徳川幕府を油断させて欺き、伝統工芸に注力して加賀藩としての力を蓄え、百万石

第11回 岩手県盛岡市       〜多数の偉人を輩出した街が誇る400年の時を紡ぐ南部鉄器

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 「武士道」が世界的なベストセラーとなった元国連事務次長の故・新渡戸稲造氏、平民宰相として現代の政党政治の礎を築き内閣総理大臣を務めた故・原敬氏、その他にも元海軍大臣で内閣総理大臣も歴任した故・米内光政氏など、多くの偉人を輩出した街である人口約29万人の盛岡市。ここに400年の歴史を重ねてきた伝統産業がある。南部鉄器である。同じ岩手県南部の奥州市水沢にある南部鉄器とは歴史や趣が少し異なっている。(但し、水沢鋳物を含めて南部鉄器という総称を用いている。)  盛岡市の南部鉄器は、江戸時代初期に茶道を嗜む南部藩三代藩主・南部重直が、京都から釜師を招いて茶釜を作らせたのが始まりだと言われている。南部家庇護のもとにお抱えの釜師や鋳物師を切磋琢磨させながら、鉄器づくりが発展した。元々、盛岡には砂鉄や岩鉄などの良質な鉄の原料があり、市内を流れる北上川の川砂や粘土、漆、木炭など鋳物に必要な原料が豊富に産出された。これが南部鉄器が地場産業として栄えた大きな要因である。  南部鉄器は、国内のみならず海外からも高い評価を受けている。特に中国ではお茶の文化が根付いており、茶釜や鉄瓶を買い求めて現地に足を運んでいたようである。盛岡市の郊外に「手作り村」があり、そこには大型観光バスが駐車場に立ち並んである光景を目の当たりにしている。品質の高さや、使い手目線に立った造形が魅力的なようだ。また東南アジアやヨーロッパ諸国からも人気がある。  この南部鉄器も苦境の時代があった。戦時中は軍需品以外の製造が禁止され、存続の危機に陥ったこともある。当時の政府に陳情して少人数ではあるが生産することが許され、何とか南部鉄器という産業を守ることができたようだ。  その南部鉄器は、1975年(昭和50年)2月に当時の通商産業省から「伝統的工芸品」第1号として指定を受けている。盛岡市内には南部鉄器を使った街灯があり、街にも根付いている。市内には10軒の南部鉄器の工房があり、一つの製品を作るのに約2か月を要し、今では注文をすると3年待ちの状況らしく活況を呈している。それぞれの工房では持ち手以外の全工程を担う一貫生産をしており、分業制で作り大量生産にも対応できる水沢の南部鉄器とはこの点が異なる。  盛岡市内には、1902年創業の老舗企業「岩鋳」がテーマパーク型工場である「岩鋳鉄器館」を開設している。南部鉄器の製品を購入す

第10回 さいたま市岩槻区    〜ひな祭り・端午の節句など日本の文化を現代に伝えた岩槻の人形

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 商都の大宮、文教の浦和、その中間に位置する与野、これら三つの都市が2001年に合併し、さらに2005年には人形の岩槻が加わり、人口130万人を超える現在のさいたま市が誕生した。最後に加わった岩槻は、1457年に太田道灌が岩槻城を築いた5万5千石の城下町でもある。  その岩槻は人形の街として全国に知られている。始まりは江戸時代後期。城下町であった岩槻は日光御成街道の宿場町でもあった。元々、岩槻は桐の産地であり桐細工で有名だった。そこに日光東照宮の造営や修復にあたった工匠が住み着き、桐を使った箪笥が作られるようになった。桐粉が生じること、さらには良質な水にも恵まれて人形づくりが盛んになったと言われている。  岩槻の人形の特徴は、頭と目がやや大きくて丸顔で愛らしい作り、華やかな彩色が使われること、さらには人形の肌が滑らかで髪も人毛のような美しさにある。滑らかで美しい人形の肌は、膠(にかわ)と胡粉から作られ、髪に使われているのは生糸で人毛によく似た柔らかいものを使い、髪付師によって丁寧に作っている。  明治時代に入ると、五月人形などの岩槻の人形は生産が拡大し、国内有数の産地となって江戸時代の面影を伝えていった。1940年(昭和15年)には人形の生産は中止に追い込まれたものの、戦後は東京から人形職人が移住し、技術力がレベルアップ。宣伝広告活動も積極化して販路を全国に拡大させた。昭和の最期辺りでは、埼玉県の人形生産出荷額は国内の40%となり、うち岩槻の人形は70%を占め、人形は岩槻という地位を確立させた。  1978年(昭和53年)に「江戸木目込人形」が、さらに2007年(平成19年)には「岩槻人形」が経済産業省から伝統的工芸品の指定を受けている。岩槻は、五月人形や木目込人形、歌舞伎人形など、一つの産地で多様な人形の製造を手掛けているまさに人形の聖地といってよく、現代にひな祭りや端午の節句といった日本の文化を今に伝えてきたと言っても過言ではない。   提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)        こちらのサイトもご覧ください。                 伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』に     事業承継のセミナー・講演会を全国各地で開催しています         過去の開催実績はこちらをご覧ください。      LINE公

第9回 兵庫県三木市      〜天下人・秀吉による街の復興政策から始まり日本一に上り詰めた三木の金物

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 兵庫県の南東部にあり、東播磨に位置する三木市。人口約77000人。日本を代表する金物の街である。三木市が日本一の金物の街に発展した陰には、あの天下人・豊臣秀吉の存在がある。当時、三木市は別所氏によって統治されていた。そこに現れてきたのが秀吉である。1580年に秀吉は織田信長の命を受け、別所長治の居城・三木城を兵糧攻めで落城させた。その際、三木の街は秀吉によって寺や古い街並みが焼き払われ荒廃。その後に秀吉が三木の街の復興事業に着手。今の三木の街の礎を築いていった。  まず秀吉は、各地から大工職人を集め、彼らに必要な大工道具を作る鍛冶職人が増えて現在の発展につながっていく。復興が一段落すると大工職人は出稼ぎに出るようになり、持っていた大工道具が行く先々で評判となり、次に出向くときには品物として売りさばいていった。江戸時代後半、ノコギリ・カンナ・ノミのほかにハサミなどの刃物、ヤスリなどの生産品目も多くなっていく。1751年には、材料の仕入れや製品の販売に当たる仲買人が誕生し、その仲買人が大きくなって仲買問屋へと発展。1792年に「作屋」など5軒が仲買仲間を結成して運営を始めた。  三木の金物は主に大坂商人によって発展を遂げ、大坂中心の市場を形成した。1803年には江戸の炭屋七右衛門から引き合いを受け、江戸との取引が開始されて全国へと知られ、また、1880年(明治13年)頃からは、輸入され出した洋鉄や洋鋼を使い、製造工程の合理化で量産が可能となった。その結果、金物問屋だけでさばくことが困難となって直接、各地方へ出張販売し、ここから三木の金物は本格的に全国へ広がっていった。1945年(昭和20年)の第二次大戦終了後は、焼け野原と化した日本全国における復興事業で、大量の大工道具が必要とされて三木の金物の需要が急増。伝統的な大工道具のみならず、近代的な金物製品を生産販売する日本屈指の金物産地として発展し、日本一となった。  その三木の金物だが、1996年(平成8年)4月に「播州三木打刃物」として、経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けた。さらに2008年(平成20年)に三木金物は地域団体登録商標(地域ブランド)として認められた。1952年(昭和27年)から三木市では、毎年11月第1土曜日・日曜日の2日間、「三木金物まつり」が開催されている。市内外から約18万人の来場者を迎え

第8回 愛知県名古屋市     〜400年の伝統が誇る 荒地が変身した街道一の街並みと日本一の有松・鳴海絞り

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「 尾張名古屋は城で持つ」と言われるほど、金の鯱(しゃちほこ)が代名詞となる名古屋城。この名古屋市は人口232万人の大都市である。1608年(慶長13年)に江戸に幕府を開いた徳川家康の九男・義直が初代尾張藩主を務めたが、その尾張藩が庇護して奨励した産業がある。有松絞りである。布をくくって染める絞りの技術で、様々な文様を描き出す木綿絞りのことで街道一の名産品ともいわれ、天下人・家康も大変気に入って愛用したものである。 この有松絞りは、手が醸し出す味わい磨き抜かれた匠の技が創り上げる精緻な模様と独特な風合いが特徴だ。一人一芸とも言われ芸術の域に達し、分業化された産業として発展していった。明治時代になると営業が自由となり、1900年(明治33年)にはパリ万国博覧会に出品し、6人の受賞者が生まれている。世界中に日本に有松ありを印象づけた。大正・昭和戦前には生産高は100~120万反となり、さらなる発展を遂げたが、戦時中は職人を徴兵に駆り出されて多くの事業者が廃業を余儀なくされ、厳しい時代もあったようだ。  戦後は生産が回復して、1975年(昭和50年)9月には「有松・鳴海絞り」として、当時の「通商産業省指定伝統的工芸品」として愛知県第1号の認定を受けるに至った。有松・鳴海地域は、全国一の絞り染め産地となっている。  有松という地だが、当初は雑草や松林で覆われた地で、耕作面積が極めて少なく、とても農業には向かない荒地だったが、農産物以外に何か特産品を、ということで誕生したのが有松絞りである。名古屋城の築城の際、九州豊後の大名の家臣が身に着けていた絞り染めに魅せられた竹田庄九郎が考案したと言われている。当初は手ぬぐいを販売していたが17世紀後半には浴衣が売れていった。さらに二代目・庄九郎は従来の藍染めに加え、紅染めや紫染めなどの染色技術を極めて100種類を数え、街道一の名産品とも言われ旅人の土産物として活況を呈した。有松の街は参勤交代で賑わう東海道一の宿場町としても栄え、当時の街道一の街並みの面影を残している町屋も立ち並んでいることから、有松の街並みは国選定重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。葛飾北斎や歌川広重が浮世絵に描いた街並みとしても知られている。毎年6月の第一土曜日と日曜日に「有松絞り祭り」は開催され、10万人以上の来場者が集まるほどの人気ぶりである。  提供:一

第7回 島根県奥出雲町     〜鉄の歴史1400年の灯は消さない「たたら製鉄」

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  今から1400年ほど前の奈良時代から、鉄を作り続けている地域がある。島根県奥出雲町である。中国山地の砂鉄と木炭を原料として、当時、世界一とも言われた高品質な鋼を生産し、江戸時代後期から明治時代初期にかけての最盛期には、全国の生産量の大半を占め、日本随一の鉄の生産地となっていた。  経営の維持には財力が必要であることから、旧松江藩は、田部家、櫻井家、絲原家の三家を鉄師として製鉄を許可。藩の財政を潤した。これら三家は、奥出雲三大鉄師と言われ、特に田部家は、1921年(大正10年)まで170年にわたって操業した。その後、安価な洋鉄が流入し1925年(大正14年)には一旦、生産は途絶えたが1931年(昭和6年)満州事変を契機に軍刀の需要に応え復活した。  現在の奥出雲町一帯が鉄の生産拠点だが、隣の安来市、雲南市でも鉄は生産され、特に安来市は日本海に沿った港町で、鉄の積み出しで栄え、北前船が行き交う鉄の交易の拠点だったようだ。奥出雲地方に広く分布する花崗岩は真砂土と呼ばれ、良質な砂鉄が今に伝わっている。土砂を河川に流して砂鉄を採取する仕草が安来節のドジョウすくい踊りの由来ともなり、そこから派生したドジョウすくい饅頭は安来市の銘菓ともなっている。  そんな鉄の生産も第二次大戦が終わると廃止となったが、1977年(昭和52年)に「日刀保たたら」として復活し、現在唯一操業している。製鉄の伝統技法を「たたら」といい、日本刀の材料となる玉鋼(たまはがね)を製造するのが「日刀保たたら」である。現在は日立金属支援のもと、玉鋼の製造と技術の伝承、技術者の養成を目的として、財団法人日本美術刀剣保存協会が運営している。1400年続く鉄の伝統の灯を消させまい、と毎年冬に数回操業して守っている。  733年に編纂された「出雲國風土記」には、この地で生産される鉄は硬く、多種多様な道具を作るのに最適、との記載がある。2016年4月(平成28年)には「鉄の道文化圏推進協会」の「出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」が文化庁の「日本遺産」に認定されている。現在、鉄の生産がなされていない跡地一帯は、広大な棚田に再生され、そこで作られたお米は「奥出雲仁多米」という高品質で高い評価がされている。     提供:一般社団法人 全国伝統産業承継支援(伝統産業ドットコム)           こちらのサイ