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第5回 愛媛県今治市      〜欧州から認められた「安心・安全・高品質」生産量日本一の今治タオル

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 大阪の泉州タオルと並び日本を代表する今治タオル。歴史を辿ると、江戸時代から綿の栽培は行われていたが、明治時代を迎えると他地域からの廉価な木綿が出回り、今治の繊維産業は衰退を迎える。そこで、1886年(明治19年)に矢野七三郎が興業舎を設立し、「伊予ネル」の生産を開始。一度衰退した綿業を復活させ『今治綿業の父』とも言われた。今治城内にある銅像には「首倡功」の文字が刻まれており、今治綿業の黎明期を築き、偉大なる創始者として称えられている。その後、1894年(明治27年)には、阿部平助という人物が綿ネル織機を改造してタオル織機を作り、今治のタオル事業が始まりを告げたと言われています。  その今治タオルだが、1984年(昭和59年)には最盛期を迎え、コンピューターの導入により生産量は増大。織機台数3200台。人員2500人。年間生産量170億円。全国の生産量の60%を占めるまでに発展を遂げていった。しかしながら、その後は中国や韓国などから安価な輸入品に押され低迷。今治のタオル事業は危機を迎えた。  その危機を救ったのがクリエイティブディレクターの佐藤可士和氏によるブランディング。2007年、政府の「JAPANブランド育成支援事業」に参加。補助金を受けながら改革に取り組み、2013年にはピーク時の5分の1まで落ちていた生産量を2割増しに引き上げるなど成果を見せた。その要因は、今治タオルの特徴である「安心・安全・高品質」を前面に打ち出し、今治タオルブランドのマークとロゴの使用が、一定の品質を保ったものにしか認められないというブランディングにあったと言っても過言でない。ミラノを中心とした欧州各地で開かれた見本市に出展して今治タオルは高く評価された。欧州の水は硬水でタオルがボロボロに痛みやすく、吸水性に加え赤ちゃんが口に入れても大丈夫という「安心・安全・高品質」を売り物にする点が評価された。ここに120年以上続く今治のタオル事業が息を吹き返したのである。今では様々な生活シーンで使われる今治タオルは日本のシェア6割を占めている。  さて、タオルで知られる今治市であるが、造船業という隠れた日本一の産業がある。今治市に本社を置く今治造船をはじめとして、市には500社を超える造船関連企業があり、今治市が海事都市として言われる所以がここにある。今治市の人口は約16万人。約3万人の家...

第4回 富山県高岡市      〜官民が一体となって守り抜く400年の伝統ある鋳物産業

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 人口約16万人の富山県第二の都市である高岡市。ここに1609年(慶長14年)高岡城が築城されて入城したのが前田利長。利長は加賀百万石の礎を築いた前田利家の嫡男で加賀藩二代藩主。2年後の1611年(慶長16年)に高岡市内の金屋町に7人の鋳物師を招き、鋳物工場を建設。高岡城下町の産業を育てようとしたのが、現在の高岡の鋳物産業をはじまりだと言われています。鋳物とは、1500度近い高熱で溶かした金属を砂などで作った型に流し込み、固めた後に型から取り出して作る製品のこと。当初は鍋や釜、農器具が中心として作られていたが、その後は花器、仏具などの鋳物に彫金を施す「唐金鋳物」を作りだすことによって発展。明治時代になり、ウイーンやパリなどで開催された万国博覧会に出展し、高岡の鋳物が世界に知られるようになった。  その後、銅器づくりに着手し高岡銅器は高岡を代表する製品と言っても過言ではなくなった。1975年(昭和50年)に今の経済産業省から伝統的工芸品の指定を受け、実に全国の銅製品生産量の90%以上を高岡が占めています。高岡の鋳物産業は「分業制」で成り立っているのも一つの特徴で、原型・鋳造・仕上げ・着色・彫金といった銅製品が出来上がるまでのそれぞれの工程が高岡市内の鋳物業者が担っており、まさに街を挙げての一大産業となっているのです。  しかし、高岡の鋳物産業も経営者の高齢化や後継者不足、さらには事業の先行きが暗いといった理由で廃業が増えているようです。そこで、危機感を覚えた高岡市が、国から構造改革特別区域計画「高岡市ものづくり・デザイン・人材育成特区」の認定を受け、2006年4月から市内の小・中・特別支援学校全40校で、高岡市の歴史や産業の特徴を活かした必修科目に「ものづくり・デザイン科」をスタートさせています。地域の伝統工芸や産業に目を向けた取り組みで高岡の鋳物産業を守っていこうとする姿勢がうかがえます。また、皆さんがよくTVなどのメディアで見聞きする株式会社能作は、2017年に新社屋を建設して「産業観光部」を設け、国内外から工場見学者を受け入れて鋳物産業のPRに取り組んであり、「官」と「民」が一つになって高岡の鋳物産業を必死に守っています。  全国各地の小学校には、あの二宮金次郎(二宮尊徳)の銅像が立っています。これは高岡市内の老舗企業・平和合金が昭和初期から製造しており...

第3回 北海道余市町      〜日本人に本場のウイスキーを飲んでほしい! 信念が成就したニッカウヰスキー            

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 北海道の西部、積丹半島の付け根に位置する人口約2万人の余市町。ここは青森県や長野県には劣るものの、知る人ぞ知るリンゴの産地である。明治時代、戊辰戦争で会津藩は新政府に敗れたが、藩が取りつぶされた会津藩士たちは北海道の小樽と余市に派遣されて開拓を命じられた。その後、相当の苦労をしながら日本で最初にリンゴ栽培に成功したと言われている。そのリンゴが支えた事業が今も余市町に存在している。ウイスキーである。その名は『ニッカウヰスキー』。1934年(昭和9年)に竹鶴政孝氏が創業した。 竹鶴氏は若くして単身でスコットランドに渡り、2年間ウイスキー造りに取り組んだ。その際に後に語り継がれる『竹鶴ノート』を2冊書き残している。このノートにはウイスキーの製造方法や設備のイラスト、スタッフの労働条件などが記されている。ご存知のとおり、ウイスキーは最低でも3年間は熟成させる必要があり、その間は売上が生じない。そこでニッカウヰスキーを支えたのが、リンゴを使ったジュースやワイン、ブランデー、セリーなどである。リンゴがなければニッカウヰスキーは誕生していないと思われる。ちなみに現社名の「ニッカ」は創業当初の社名が大日本果汁であり、そこから「日」と「果」から取られた。 竹鶴氏は、この余市町という土地がスコットランドに風景や気候が似ていること。また適度な湿度と澄んだ空気、ウイスキー造りでは生命線となる良質な水が豊富にあることが決めてとなり、工場建設を決めたと言われている。また、「日本人に本場・スコットランドのウイスキーを飲んでもらいたい。」この一心でウイスキー造りに取り組まれたようである。資金繰りや太平洋戦争といった数々の困難に見舞われても、その思いや信念が支えとなり、ウイスキー造りを続けることができたと思われる。  最初は本場・スコットランドのウイスキーの味は「煙くさい」とも言われ日本人の舌に合わなかった。それでも「石炭直火蒸留」と言われるポットスチルを石炭を使って直火炊きで蒸留する製造方法にこだわり、ウイスキー造りを継続していった。やがて戦争が終わり、ようやく日本人に受け入れられて現在に至っている。ご記憶の方もおられると思われるが、2014年度下半期にNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』でドラマ化されて放送された。 竹鶴政孝氏は、1979年(昭和54年)に亡くなられたが、会長室として使...

第2回 宮城県白石市      〜温かい思いやりの心から生まれた白石の特産・白石温麺(うーめん)

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宮城県南部、蔵王連峰の麓に位置する人口約3万人の白石市。ここに400年の伝統がある名産品『白石温麺(うーめん)』がある。江戸時代、胃を患い何も食べられない父のために、息子が旅の僧侶から油を使用しない麺がある、と聞き、製法を学んで完成したのが『白石温麵』である。この麵は消化が良く滋養に富んでいて、食した父は快方に向かったという。この話を聞きつけた白石城主・片倉小十郎公が「温かい思いやりの心」を称えて、この麺に『白石温麺(うーめん)』と名付けたという。この『白石温麵』は片倉氏が使えた仙台藩主・伊達家への献上品にもなったと言われている。さらに、伊達家から他の大名家や京の公家への贈答品にも使われたという。すなわち、「伊達家お墨付き」の麺なのである。『白石温麵』は地元白石産の小麦粉と蔵王の清澄な水から製造するが、保存料や添加物を一切使用せず、常温での保存が可能で安心して食べられる麺である。そうめんと比べても太く、9センチという短さで茹でやすく、食べやすい麺である。食べられる場所は限られており、東北新幹線・白石蔵王駅の食堂でも食べられるので、白石市に行かれたら、ぜひ食してもらいたい逸品です。 ちなみに、この白石市が戦国のヒーローでもある真田家とゆかりが深いことをご存知だろうか?二代目・片倉小十郎が大坂夏の陣で、真田家と対峙した際、豊臣方の敗北と自らの最期を悟った幸村が、自らの娘・阿梅(おうめ)と次男・大八を片倉小十郎に預け、見事、片倉家で成長している。阿梅は小十郎の後妻になり、大八は伊達藩士に取り立てられた。 かつて、片倉氏が奨励し保護政策として存続してきた『白石温麵』は400年にわたり、地元の人々の間で食べられてきた。まだあまり知られていない食品でもあるので、皆さんに一度は味わっていただきたいものである。          提供:一般社団法人 全国伝統産業承継支援 (伝統産業ドットコム)           こちらのサイトもご覧ください。        伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』に     事業承継のセミナー・講演会を全国各地で開催しています 。                   過去の...

第1回 群馬県桐生市      〜1300年を超える歴史をもつ繊維産業の一大産地

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 『西の西陣、東の桐生』とも言われ、奈良時代から織物で栄えた桐生市。1300年を超える歴史ある街である。また『桐生は日本の機どころ』とも上毛かるたでも歌われている。よって、桐生市の織物産業は、企画から製品化までのデザイン、撚糸、染め、織、編み、刺繍、縫製といった多くの工程の技術が集積した日本を代表する繊維産地である。  桐生織にはこんな逸話も残されている。あの天下人・徳川家康の要請により、天下分け目の関ケ原の戦いの際には、職人が白絹で軍旗2410疋をわずか1日で織って献上したと言われている。つまり、桐生織は家康に勝利をもたらした幸運を呼び込む織物でもある。その家康の命により、桐生の街は天正19年(1591年)から慶長11年(1606年)の間に養蚕や絹織物の拠点として整備された。よって、徳川家康は桐生の街の生みの親と言っても過言でない。  桐生織物は、お召織り、緯錦織りなど7つの技法があり、様々な種類の織物が作られてきた。江戸時代後期から産業として発展。明治維新を迎えると工業化が進み、1881年(明治14年)には、日本で初めて対米輸出された。さらに1887年(明治20年)には日本織物株式会社が設立されて工業化に成功し、日本の代表的な産業としての地位を確立した。その後、昭和初期には「ノコギリ屋根」といって、三角屋根が特徴な形状の織物工場が多く立ち並ぶまでに成長した。  桐生織は1977年(昭和52年)に当時の通商産業大臣から『伝統的工芸品』の指定を受けた。また、1997年(平成9年)には桐生織物会館旧館(現・桐生織物記念館)が国の登録有形文化財に指定された。近年では2008年(平成20年)に、「桐生織」が地域団体商標に登録されている。だが、栄華を極めた桐生の繊維産業だが、海外からの安価な製品などの流入により近年は苦戦を強いられており、立て直しが急務とされている。  最後に食の話題を。桐生市を中心とした北関東一帯は「小麦」の産地でもあり、桐生市内では『ひもかわ』といって、小麦で作られた薄くて幅の広いうどんが有名である。ぜひ、桐生に立ち寄られれば食べてみて下さい。   提供:一般社団法人 全国伝統産業承継支援 (伝統産業ドットコム)          こちらのサイトもご覧ください。       伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』に   ...