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第41回 静岡県浜松市    〜「やらまいか」の精神で数多の世界企業を生んだ浜松市は知る人ぞ知る「浴衣」の街

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静岡県浜松市。県西部に位置し、2007年4月に政令指定都市に移行した人口約80万人の街。 自動車のホンダとスズキ、楽器のヤマハなど数多の世界企業を生み出した日本有数のものづくりの街でもある。その根底には「やらまいか」という、やってやろうじゃないか。と新しいことに挑戦する気風がある。とにかく、まずはやってみようと挑戦し、何度も失敗を重ねては挑戦を繰り返し、最後は実現するというその精神こそが浜松市から世界に羽ばたく企業が生まれた要因である。  その「やらまいか」の精神のルーツとなるのが遠州織物にある。明治時代にあの世界企業・トヨタの創業者である豊田佐吉氏が小幅力織機を発明し、1930年(昭和5年)に鈴木道雄氏が広幅を織るサロン織機を発明して産業として発展するきっかけともなった。浜松市は繊維産業として当初は発展をしていった。中でも「浴衣」は東京や大阪と並ぶ日本三大産地の一つでもある。  東京の「浴衣」は藍をふんだんに使い一色で染めたような粋なデザインが、大阪の「浴衣」は色をふんだんに使ったカラフルで艶やかな色合いという特徴を持つが、浜松市の「浴衣」は生地から染めまで一貫して作ることができ、「浜松注染」といって大正時代からの日本独特の染め技法が使われている。糊を置き、型を使い、染料を上から注いで染める注染は日本古来の染色技術であり、染料を職人が手で注ぎ込んで染めている。生地の裏側にまでしっかりと染料が入り込むので表裏がなく、その色の深みが特徴。やわらかなぼかしは熟練職人の技で手作りの深みを感じさせる。そもそも、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で東京浴衣職人が移り住んできたことが浜松市の「浴衣」づくりの始まりである。  「浜松注染」は地の利が味方をした。市内には天竜川が流れており、注染染めには大量の水を必要とするので染色工場は川沿いに多く立地した。また、反物の乾燥に適した空っ風、新たな機械の開発も盛んに行われていた。さらに浜松市は東京と大阪の中間に位置していることから生産と供給に適した環境でもあった。これらが要因として浜松市は「浴衣」の産地として発展していったのである。  「浜松注染」は凹凸をつけることから、肌にまとわりつかず、生地にやさしい染色技法で通気性がよく、「浴衣」だけでなく手拭いやシャツに至るまで人気を集めている。その技法は現代まで引き継がれて全国に知れ

第40回 山口県柳井市   〜毛利を残した岩国領吉川家の殿様に絶賛された200年続いている甘露醤油

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 山口県柳井市。山口県南東部に位置する人口約3万人の街である。江戸時代、瀬戸内海に面した地の利を活かして、廻船(貨客輸送船)の寄港地として発展した商業都市である。山陽本線・柳井駅の北側には白壁で覆われた建物が立ち並び、「岩国吉川領の御納戸」と称された往年の面影が残っている。その吉川家の殿様が絶賛し、現代にわたり200年以上続いている伝統産業がある。『甘露醤油』である。  『甘露醤油』は、正式には「再仕込み醤油」と言われるもので、柳井市が発祥と言われている。既に出来上がった濃口醤油に、もう一度麹(こうじ)を加えて発酵させる醸造方法で作られている。手間も材料も通常の醤油の約2倍必要とし、2年以上にわたりじっくりと熟成して他が及ばない独特の深みのある味わいや香り、色合いとも濃厚な仕上がりとなっている。特に刺し身や冷奴を食するときに使用すると堪能することができる。柳井市を中心とした西日本では『甘露醬油』と呼ばれているが、江戸時代に吉川家の殿様に絶賛され『甘露醬油』という名を賜ったと言われている。  柳井市の『甘露醬油』の始まりは、1780年代に高田伝兵衛が作り上げた醤油を時の吉川家七代当主・吉川経倫が、醤油の美味しさに思わず「甘露!甘露!」と感嘆の声を上げたという逸話が残されている。以後、現在において柳井市内には2つの蔵元が『甘露醬油』を作り続け、全国各地に出荷をしている。  柳井市には『甘露醬油』の他に、山口県の二大郷土民芸品の一つとして「金魚ちょうちん」がある。150年ほど前に、青森県弘前市の「金魚ねぷた」をヒントにしたもので、赤と白のすっきりとした胴体にパッチリと黒い目を開いたおどけた顔が特徴だ。竹ひごと和紙、赤と黒の染料で色付けして作られたもので、お土産として人気がある。この金魚ちょうちんが飾られた白壁の街並みは200メートル続いており観光客の人気スポットでもある。毎年8月13日は「金魚ちょうちん祭り」が開かれ、白壁の街並みを中心として4000個もの金魚ちょうちんが飾られ、夏の風物詩ともなっている。  最後に江戸時代を通じて柳井市を統治した岩国領・吉川家について。吉川家は毛利家一族であり、1600年(慶長5年)に行われた天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍総大将に祭り上げられた毛利輝元公の従兄弟だった吉川広家公が、裏で東軍・徳川家康に内通して毛利の名を残した経緯がある。

第39回 高知県安芸市   三菱グループ創始者・岩崎弥太郎氏を生んだ安芸市は『シラス』の聖地

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 高知県安芸市。太平洋を望む高知県東部の中心都市で人口が約1万6千人の街である。毎年2月にプロ野球の阪神タイガースがキャンプを行う地として知られている。また、三菱UFJ銀行をはじめとした三菱グループの創始者である岩崎弥太郎氏を生んだ土地でもある。大相撲の力士も土佐ノ海と栃煌山といった元関脇の二人も安芸市の出身である。  安芸市は太平洋に面していることから昔から漁業が盛んで、漁獲量の約90%が『シラス』で占められている「シラス」の聖地である。安芸市内には16件もの「シラス」を使ったちりめんじゃこ丼や「生シラス」が食べられる食堂がある。「シラス」を加工する工場と食堂が一体となっており、新鮮な「シラス」を食べることができる。  2019年には全国47都道府県において、約30%の安芸市を中心とした高知県は第6位の漁獲量を誇っており、愛知県や静岡県などには漁獲量では劣るものの新鮮さでは引けを取らない。安芸市の『シラス』が聖地である所以がここにある。安芸市内の海岸通りは、天気の良い日には大量のシラスが天日干しされていることから、「じゃこ通り」とも呼ばれている。  『シラス』はいわし類の稚仔(ちし)魚で、35ミリ以下程度のものである。黒潮が室戸沖に当たり荒波の中で育つことになり、身が引き締まって旨味が凝縮されて『シラス』になる。安芸市内の面積は88%が森林で、かつ、川も多く、山の栄養分が豊富に流れ込むことから、質の良いプランクトンを食べることで『シラス』の質も良くなっている。つまり、森に囲まれて質のいい『シラス』が育つ環境が整っている地の利が安芸市にある。特に秋が旬で、11月から翌年4月のものが多く、12月頃が一番おいしいと言われている。  安芸市が発祥と言われているシラス漁だが、その多くは家族経営となっている。2010年(平成22年)には120あった経営体が、2019年(令和元年)には96にまで減少している。伝統産業における全国共通の悩みである経営者の高齢化と後継者不足の解消が今後の課題となる。いかにして漁業の担い手を確保して、かつ、育成していくか? 安芸市が『シラス』の聖地として存続していくてための大きな課題である。  最後に安芸市は、『シラス』の他に「なす」や「柚子」「土佐ジロー(鶏肉)」も特産品であり、中でも「柚子」は全国生産量の約50%をを占めており、日本一の産地でもあ

第38回 沖縄県那覇市   〜沖縄返還から50年。琉球王国時代から600年続いている琉球泡盛は沖縄の誇り

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  沖縄県那覇市。人口約31万人。1972年(昭和47年)5月15日に太平洋戦争後、米国の統治下におかれていた沖縄が日本に返還された。今年2022年(令和4年)で50周年を迎える。この機に沖縄を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』が4月から放送されている。本土とは異なる沖縄独特の食文化と芭蕉布や三線(さんしん)などの伝統工芸を活かした演出が施されている。。  沖縄県には那覇市を中心として、かつての琉球王国時代から600年続いている『琉球泡盛』が沖縄県を代表する伝統産業の一つである。『琉球泡盛』は焼酎と同じ蒸留酒であり、黒麹とインディカ米(細長い米)であるタイ米を使用して、仕込みは1度だけの全麹仕込みで製造されているものである。タイ米を使用しているのは硬質でさらさらしていて粘り気が少なく、黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく米麴をつくりやすいためである。結果、香りや味わいに泡盛独特の風味を出している。ちなみに『琉球泡盛』は九州を代表する酒である焼酎の源流(ルーツ)ともなっている。  『琉球泡盛』の魅力的な点は、長期保存によって成分が熟成し味がまろやかに香り高くなることにある。一般に3年以上にわたって熟成された泡盛は、「古酒(く~す)」と呼ばれている。大切に管理していけば、100年や200年の古酒に育てることができるものである。実際、太平洋戦争によって多くの古酒が失われてしまったが、奇跡的に庭先に深く埋めていた古酒3本が残り、150年ものが最も古い泡盛と言われている。  『琉球泡盛』の歴史を紐解くと、1470年頃に現在の泡盛の原型とみられる酒が造られ、琉球王国時代に王府が管轄し、首里三箇と呼ばれた地域(赤田・崎山・鳥堀)限定でわずか40人の職人で泡盛造りが行われていた。『琉球泡盛』は外国の来賓をもてなす国酒として1853年には黒船で来航したペリー提督をもてなした記録がある。  『琉球泡盛』の名は沖縄県内で製造されていることを証明するもので、法律的には製造方法さえ守れば、沖縄県外でも泡盛の製造は可能である。差別化を図るために、2004年(平成16年)から表示に関する取り決めがなされた。ただし、アルコール度数が45度以下が条件となっている。この年に記録した27,688キロリットルの出荷量をピークに出荷量は減少の一途を辿り、出荷額も299億円から半額程度の約150億円と売

第37回 長野県松本市   〜大正末期に生産量日本一となり一世を風靡した300年続く松本家具

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 長野県松本市。人口が約24万人の国際会議観光都市に指定されている県内第二の都市である。1907年(明治40年)に松本市とされ、2007年(平成19年)に市制施行100周年を迎えている。エレキギターの生産が盛んで、「松本てまり」「松本姉様人形」「七夕人形」「松本押絵雛」など民芸とクラフトの街としても知られており、国宝松本城を擁した観光地である。また、松本城を筆頭に旧開智学校などの歴史的建造物が多く保存されている。  松本市は、空気が乾燥して風通しが良く木材の乾燥に適しており、家具作りに最適な場所が要因で、当時すでに城下町として栄えていた安土桃山時代から家具の生産が盛んな土地柄だ。松本家具の主要材料であるミズメ桜(梓の木)は、硬くて粘り強い家具の用材として適した木で、その硬さゆえ、加工には機械を使わずに職人の手のみで作られている。良質な材料と鍛えぬかれた職人の技によって、美しく、かつ、堅牢な使うほどに味わい深い重みをもった家具として評価されている。  松本家具は「和」のしたたかさと「洋」のセンスがバランスよく調和するデザインに特徴があり、江戸時代から明治、大正、昭和とそれぞれの時代に応じた数多くの家具を生み出してきた。中でも、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興に伴い、家具の需要が高まり、大正時代の末期には家具の生産量が日本一となって一大家具産地を築き、一世を風靡したこともある。  しかし、太平洋戦争が始まると一時、生産が中止に追い込まれた。産地衰退の危機を救うため、戦後の1948年(昭和23年)に、池田三四郎が中心となって民芸運動に参加して木工産業の復興を図った。家具と言えば、福岡県大川市や北海道旭川市、岐阜県高山市などが家具産地として知られているが、松本家具も知る人ぞ知る存在で、1976年(昭和51年)に当時の通商産業省から家具部門としては全国で最初の伝統的工芸品の指定を受けており、300年以上の歴史をもっている。  最後に、松本市の観光名所である国宝松本城について。松本城は姫路城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)、松江城(島根県)、犬山城(愛知県)と並び国宝5城の一つで、1930年(昭和5年)に史跡指定され、1936年(昭和11年)に重要文化財として指定された。その後、戦災や火災を免れ、新たに制定された文化財保護法によって、1952年(昭和27年

第36回 宮城県仙台市   〜グルメ武将・独眼竜伊達政宗公が現代に残した400年の歴史ある仙台味噌

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 宮城県仙台市。人口約106万人を擁する東北地方最大の都市で、言わずと知れた牛タンで有名な街である。仙台の街の基礎を作ったのは、あの独眼竜で知られた伊達政宗公だが、グルメ好きでも知られた戦国武将でもある。その名残りで以後400年にわたり現代に残されている伝統産業がある。仙台味噌だ。  仙台味噌は、政宗公が1601年(慶長6年)に仙台城を築城した際、その城下に「御塩噌蔵」(おえんそぐら)を設置したことに始まる。この「御塩噌蔵」は日本で最初の味噌工場とも言われた大規模な味噌の醸造設備である。仙台味噌は米を使い、大豆の比率が他の地域産に比べて高いのが特徴で、発酵熟成することによって、味は濃厚で深い旨味、辛口の赤味噌となり、出汁いらずで味噌汁ができると評判な味噌である。  この仙台味噌は江戸時代に繁盛している。政宗公の後継者・二代藩主である忠宗公の頃から、江戸・大井にあった仙台藩下屋敷においても「御塩噌蔵」を設け、本格的に味噌づくりを行っている。ここで作られた赤味噌は江戸で評判となり、「仙台味噌」の名が知られるところとなった。そのためか、大井の下屋敷は「味噌屋敷」とも言われたようである。その後、仙台味噌は明治時代に入っても東京の街で積極的に売られ、一世を風靡した。  仙台味噌は、第二次大戦中には配給味噌の基準製法となったこともあり、関東から東北地方にかけて圧倒的なシェアを有するまでになった。だが戦後において、長野で誕生した信州味噌の製造法が関東地方で普及したことによって、徐々に衰退していった。しかし現代でも仙台味噌は、赤味噌を代表するブランドの一つで、その名が全国に知られている。地元・仙台市内では現在でも6社の企業が伝統ある仙台味噌づくりを続けている。  味噌には米味噌・麦味噌・豆味噌という3つの種類があり、かつ、赤味噌や白味噌という色による分類がある。政宗公が現代に残した仙台味噌は米味噌で長期熟成の赤味噌、辛口にあたる。京都の白味噌が5~7%、信州味噌が10~12%に対して仙台味噌は、11~13%という塩分量と言われ、辛口と言われる所以である。  仙台の街の基礎を築いた政宗公であるが、戦いのみならず、茶道や能などにも勤しんだ教養人でもあった。また、同時にグルメ好きでもある。その影響から仙台味噌が生まれたと言っても過言ではない。政宗公は味噌だけでなく、製塩業や米づくりにも注

第35回 埼玉県行田市   〜大ヒットドラマ『陸王』を生んだ江戸時代中期から300年続いている日本一の行田足袋

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 埼玉県行田市。人口は約77,000人で埼玉県名発祥の地でもある。また、「半沢直樹」や「下町ロケット」「ノーサイドゲーム」の著者・池井戸潤氏の『陸王』の舞台ともなり、2017年10月から12月までTBS日曜劇場でドラマ化されたことは記憶に新しい。そのドラマでは足袋の製造技術をランニングシューズに応用していた。行田市は江戸時代中期から300年続いている日本を代表する足袋の一大産地である。  行田市の足袋の始まりは地の利にある。利根川と荒川という二大河川に挟まれた肥沃な大地に、二つの川の氾濫で堆積した砂室土や豊富な水、夏季の高温が絹や藍の栽培に適していた。これを原料として足袋づくりが始まったのである。1716年~1735年あたり、忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励した。株仲間がなく取引が自由に行えたことから、足袋づくりは盛んとなり、行田の足袋は全国に知られるようになっていった。軍需用の足袋の生産にも携わるなど、増大に生産された足袋を保管するための足袋蔵が江戸時代後期には建てられるなど地場産業として成長していった。その足袋蔵は昭和30年代前半まで建設が続けられたようである。現在でも足袋蔵が多く残っており、行田市の足袋の街の象徴ともなっている。  足袋の製造にはミシンが欠かせず、工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、明治時代には生産量が一段と増大した。昭和13年から14年には全国の生産量シェア80%を占め、名実ともに日本一の足袋の生産地となった。しかし、戦後の1954年(昭和29年)にはナイロン製の靴下が発売され足袋づくりに陰りが見られ、1958年(昭和33年)頃には行田市の足袋業者の廃業や転業が加速していった。それでも1972年(昭和47年)には40億円の出荷額、1999年(平成11年)には40%、2017年(平成29年)は35%の全国シュアを維持し、靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられている。その行田市の足袋は、2019年(令和元年)に『行田足袋』として経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けている。  行田市は、映画「のぼうの城」の舞台にもなった10万石の城下町でもある。市内にある忍城は関東七名城の一つで小田原城を支える支城でもあったが、1590年に豊臣秀吉の家臣・石田三成によって水攻めを敢行されるも、小田原城が開城するまで落城しなかった。湿地帯の地形を巧み