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第31回 愛媛県松山市   〜数多の俳人を生んだ俳句の街・松山市には、かつて全国を席巻した伊予絣があった

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 愛媛県の県庁所在地である松山市。人口は約50万人。正岡子規をはじめとした多くの俳人を輩出した俳句の街でもあり、街中には俳句ポストが溢れている。また、夏目漱石の代表する小説「坊ちゃん」の舞台にもなり、日露戦争を描いた故・司馬遼太郎氏の歴史小説「坂の上の雲」では、冒頭の正岡子規や地元松山市出身の秋山好古・真之兄弟が登場している。  この松山市には、福岡県・久留米絣や広島県・備後絣と並び日本三大絣の一つにも数えられる伊予絣がある。温泉郡今出の鍵谷カナという人物が、独力で苦心のすえ製織したのが始まりである。藁屋根の押竹に白い縄目の跡があるのにヒントを得て、絣を織ることに成功。当初は「今出絣」と名付けられ、全国的に普及するにつれて、現在の「伊予絣」に呼ばれるに至った経緯がある。  1904年(明治37年)に生産量の26.5%で全国1位となり、明治から昭和初期の時代まで圧倒的な生産量を誇り、日本三大絣の一つに数えれらるまでに繁栄した。生産量のみならず、絵柄の多彩さや庶民性が受けたことが理由のようだ。絵柄は基本の井桁、玉かすり、花、お城などの凝った柄が多く、色も藍、赤、朱などの暖色がファッション心をくすぐり、また、庶民向けの着物として広く国内で愛用されていた。ピーク時は1906年(明治39年)、生産量は247万反で約5割を占めるまでになった。  久留米絣と備後絣は絹メインでやや割高であるのに対し、伊予絣は木綿100%で庶民的な価格であったことから農村の隅々まで行き渡った。行商人の地道な営業努力の賜物でもある。大手問屋に扱われる事が多かった久留米絣や備後絣とは一線を画したことが、人々の支持を得ることにつながったとも言える。  しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌が起こるまでは年産220万反を維持していたが、その後、洋装文化が進んだことで和装が衰退。絣の需要は低下し事業者の減少が始まった。現在では白方興業1社のみが生産を続けており織り手も2人のみ。年間生産量は60反にとどまっている。かつて、全国を席巻した伊予絣を残していくために民芸伊予かすり会館を開き頑張っている。この伊予絣は1980年(昭和55年)に愛媛県指定の伝統的特産品となっている。  最後に、松山市と聞けば道後温泉が頭に浮かぶ人が多いと思われる。約3000年の歴史があり、日本最古の温泉とも言われている。本館は1894年

第30回 福岡県福岡市   〜豪商を生み出した商人の街・博多から誕生した780年続く日本三大織物の一つ博多織

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 福岡県福岡市。人口は約162万人。横浜・大阪・名古屋・札幌に続く人口160万人超えの政令指定都市である。博多と聞けば、多くの人々が明太子を頭に浮かべるのでは?かつて、戦国時代に戦で荒れた博多の街を復興させた天下人・豊臣秀吉のもとで、神谷宗湛や嶋井宗室などの豪商を生んだ商人の街でもある。こぼれ話があり、昔から福岡市は繁華街・中洲を流れる那珂川をはさみ、西側を行政の街・福岡と東側を商人の街・博多とに分かれている。よって、明治時代に市や駅の名前を決める際、ひと悶着があった。1890年(明治23年)に市議会にてわずか1票差で市の名称が「福岡市」に決定された。同年12月に当時の国鉄の駅名を「博多」に決めてなんとか収まったという経緯がある。だから、現在でも新幹線の駅名に「福岡駅」がない疑問が解けたのではないだろうか。  やや前置きが長くなったが、福岡市には780年続いている博多織という伝統産業があり、桐生や西陣と並ぶ日本三大織物の一つでもある。博多織は先染めの糸を使って、細い経糸(たていと)を多く用い、太い緯糸(よこいと)を強く打ち込み、主に経糸を浮かせて柄を織り出すのが特徴と言われている。1241年に満田弥三右衛門が宋で織物の製法を習得して博多に持ち帰ったのが博多織の始まりである。その250年後、弥三右衛門の子孫たちが織物の技法を研究し工法の改良を重ねて、琥珀織のように生地が厚く、模様の浮きでた厚地の織物を生んだ。  1600年(慶長5年)に天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に味方した黒田長政が初代福岡藩主になると、徳川幕府への献上品として博多織は重宝されたという。織元に「織屋株」と称する特権を与え、藩からの需要のみを生産させて「献上の風格」と希少価値で保護したと言われている。よって、博多織は高級織物として知られながらも、人気急騰にもかかわらず、民衆の需要に応えることができなかった。幕府が崩壊した明治時代に入ると、博多織は自由に生産されるようになり、1885年(明治18年)にはジャカード機が導入され、1897年(明治30年)には240軒の織屋が存在するまでになった。しかし、その後に発生した日露戦争を境にして、活力が失われ30軒までに減少したという。  戦後の昭和30年代になると経済復興の中、着物ブームが生まれ、業者の数や生産量も増加。昭和50年のピーク時に168軒、帯で

第29回 新潟県長岡市   〜山本五十六元帥を輩出したわが国最大の花火祭りと日本一のジャンボ油揚げの街

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 新潟県長岡市。人口は約26万人の県内第2の都市である。この長岡市からは多くの偉人を輩出している。まずは何と言ってもこの人抜きでは語れない山本五十六元帥である。日本海軍の連合艦隊司令長官で、当初は日米開戦に反対していたが、やむなくハワイ真珠湾攻撃を指揮した。幕末には新政府軍と戦って負傷して亡くなった越後長岡藩の家老を努めた河合継之助がいる。司馬遼太郎氏の小説「峠」のモデルでもある。また、日本ビールの父とも言われる中川清兵衛もいる。  すでにご周知のことと思われるが、長岡市は秋田県の大曲、茨城県の土浦と並ぶ日本三大花火まつりの地としても有名である。1945年(昭和20年)8月1日に市街地の80%が焼野原となり、1482人もの命が失われた。その慰霊と戦後復興の願いを込めて、翌1946年(昭和21年)から毎年8月2・3日の両日に開催されている花火大会である。多くの人々に感動を与えているという。  前置きが長くなってしまったが、長岡市には260年あまりにわたって作られている名物『油揚げ』がある。地元では「あぶらげ」と言われているが、2005年(平成17年)と2006年(平成18年)に行われた平成の大合併で長岡市に編入された旧栃尾町で今でも作られている知る人ぞ知る油揚げである。なんと言っても大きさがハンパではない。長さ20〜22センチ、幅6~8センチ、厚さ3センチというジャンボ油揚げである。そして、低温と高温の2つの鍋で二度揚げするので中の芯までふっくら揚がり、大きさと味ともに日本一の油揚げと言われ全国的にも知られている特産である。  「栃尾のあぶらげ」の始まりは、江戸時代中期に当時、隆盛を極めていた地元の秋葉神社に佐渡や上州、会津などから多くの参拝者が訪れることから、何かお土産になるのはないか?ということで、江戸の豆腐屋で修行をしていた林蔵が考案して油揚げが作られるようになったという。その後、栃尾の馬市で馬の売買が成立し酌み交わす酒の肴に好まれ、手づかみができて満腹になるようにと今の大きさになった逸話が残されている。また、栃尾には「全国名水百選」にも選ばれた杜々の森の湧水や城山金銘水、守門名水、薬師清水といった数多くの名水があり、これらの良質な水を原料である大豆に染み込ませることで美味しい油揚げが作られている。  最後に、長岡市は日本海随一とも言われる工業都市で、機械金属加

第28回 福島県会津若松市   〜地名の名付け親・蒲生氏郷と将軍の隠し子・保科正之が奨励保護して発展した会津塗(漆器)

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人口約11万人の福島県会津若松市。幕末に新政府軍と戦った少年兵で組織された白虎隊の悲劇が頭に浮かぶ土地である。 二代将軍・秀忠の隠し子であり会津藩祖でもある保科正之公が徳川に絶対的な忠誠を誓っていたことから徹底抗戦したと言われている。この会津若松市には、江戸時代から多くの伝統産業が残されている。とりわけ福島県のお酒は評価が高く、明治時代から続く「全国新酒鑑評会」で7年連続で金賞受賞数が日本一である。中でも、鶴乃江酒造の「会津中将」という銘柄は保科正之公の官位から名づけられた名酒である。  会津若松市に伝統産業が多いのは、1590年に伊勢松坂から入封した蒲生氏郷の影響が大きい。当時の天下人・豊臣秀吉が同じ東北の伊達政宗をけん制するために、わざわざ氏郷を会津に移した。そして、氏郷は当時、黒川だった地名を「若松」に替えた。氏郷の故郷である日野の「若松の杜」に由来して名付けられたようだ。(1955年・昭和30年に北九州市若松区と混同回避するために現在の会津若松市となった経緯がある)  その氏郷がこの若松の地に根付かせたのが「会津塗」である。会津塗はよく知られる津軽塗や輪島塗よりも早くから盛んだったが、氏郷は産業として奨励するために近江国から木地師と塗師を招き基礎を作り上げた。そして、「塗大屋形」という漆器の伝習所を作り、職人の養成や技術の向上に努めさせた。以後、会津塗は地場産業として保護されていく。  その会津塗を大きく発展させたのが、冒頭に触れた保科正之公である。1643年に藩主となった正之は、漆の木の保護育成に努めた。藩内の漆の木は江戸時代初期は20万本ほどであったが、江戸時代中期の1700年頃には100万本を超えるまでになった。歴代藩主たちも会津塗を保護・奨励していった。そして、江戸へ売り出し、江戸時代後期には中国やオランダに輸出もしていた。江戸時代を通じて、会津塗は大きく発展成長していったのである。会津塗が産業として大きく発展することができた3つの要因がある。まずは、盆地特有の湿潤な気候により、漆を扱うのに適していたこと。次に、周囲を山々に囲まれ木材に恵まれていたこと。最後に代々の藩主たちが会津塗を保護したことにある。  しかし、江戸時代が終わりを告げて新政府軍との戊辰戦争が起こると、会津の街は焼野原となり荒廃してしまう。一時的に会津塗は衰退したが、1872年(明治

第27回 山梨県甲府市   〜戦国の名将・武田信玄公が治水工事で整備した日本一のジュエリー(宝飾品)の街

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 人口約19万人の山梨県甲府市。 戦国時代、風林火山を旗印にした名将・武田信玄公が統治した街である。戦国最強軍団を率いて戦に強いというイメージがあるが、治水工事にも長けた経営者でもある。昔、甲府の街は洪水が多く、田畑の氾濫が相次いだ。信玄公が武田の当主となり20年という長い歳月をかけて治水工事を行い街を整備した。現代でも山梨県の人々から英雄とされ、『信玄公』と呼ばれている所以がここにある。この甲府の街に江戸時代から続いている伝統産業がある。水晶から宝石や貴金属を作る研磨加工である。                       始まりは江戸時代末期、甲府の北部にある金峰山一帯で水晶の原石が多く採掘されたことにある。1834年にその水晶を研磨する職人を京都より招き、研磨技術を応用して宝石の加工が始められ、国内向け以外にも外国商館にも販売された。明治時代に入ると政府の勧業政策に取り入れられ、明治中期には水晶玉や水晶の置物に加え、ブローチ用の水晶のカットも行われるなど、水晶工芸と貴金属工芸という2つの産業が結びついた。    明治後期から大正時代初期、水晶の研磨加工が機械化や電化されたことによって、手磨きから円盤磨きへと変わり、量産の基盤が確立されていった。その後、甲府の水晶の枯渇が顕著になり、代わりにブラジル産の水晶が大量に輸入されるようになった。結果、同一規格品の量産が可能になり、国内の販路拡張に伴って水晶細工や水晶首飾りがアメリカに輸出されたり、中国大陸への販売などによって、甲府の研磨宝飾品が全国に知られるようになった。  しかし、戦争が始まると研磨加工業者は水晶発振子や光学レンズなどの軍需研磨品の生産体制へと組み込まれたり、1940年(昭和15年)の奢多品等製造販売制限規制によって転廃業が進み、大きな打撃を受けた。戦後、進駐軍が首飾りやイヤリング、指輪などの水晶細工を土産品として大量に購入したことが甲府の宝石産業の復活となった。      進駐軍のブームが去ったあと、国内向けの生産が本格的に開始され、身辺装飾品に限らず室内装飾品や工業用品など多様な品種が量産されるようになった。高度経済成長期には次第に高級品へと移行し、ダイヤモンドをはじめイエローゴールド、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使った中級、高級製品の加工に取り組み、宝飾品の高級化や多様化を求める市場の

第26回 大阪府大阪市   〜明治時代から隆盛を極めた大阪ガラス産業の灯を守り続ける「天満切子」

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    かつて、戦国時代には天下人・豊臣秀吉が豪華絢爛な大坂城を築き、江戸時代には日本海ルートの西回り航路で、蝦夷(現在の北海道)や日本海沿岸の特産物が入り、『天下の台所』として栄えた大阪市。現在の北区堂島には、西国大名らの蔵屋敷が置かれるなどして賑わった。大阪市の人口は約275万人。大阪市では明治時代から大正、そして昭和の戦前までガラス産業が隆盛を極めた。学問の神様として知られる大阪天満宮の正門横には、「大阪ガラス発祥之地」という碑が立っている。  大阪のガラス産業の発祥は、1751年に長崎のガラス商人である播磨屋清兵衛が天満宮前で工場を作り、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を大阪に持ち込んだことにある。1819年には渡辺朝吉が天満にガラス工場を作った。江戸でもガラス産業は始まっていたが、大阪が少しばかり早かったようだ。大阪のガラス産業が発展した要因として、「水の都・大阪」と言われたとおり、ガラスの量産に必要なケイ砂や燃料となる石炭を運ぶ手段として水運が発達していたことにある。明治時代になると、イギリスから新しい製造技術が伝わり、大阪のガラス産業は発展した。1875年(明治8年)に伊藤契信が与力に、1882年(明治15年)には、島田孫市が天満にガラス工場を作り天満切子のルーツとなった。  「天満切子」は、北区与力と同心界隈を中心に発展していき、当時は江戸切子で知られる東京を凌ぐほど隆盛を極めていた。また、昭和の高度経済成長あたりまで、子供たちに人気のあったガラスのビー玉が始めて国産化されたのも大阪市北区である。第二次大戦後、大阪市内でのマンション建設などに伴う郊外への工場移転に始まり、近年では国内での競争や、安い輸入品に押されるなどして、大阪のガラス産業は衰退しガラス工場は消えてしまったが、「天満切子」の工房は今でも残っている。  切子と聞くと、江戸切子や鹿児島の薩摩切子が有名だが、これらはV字形の刃を用いた模様が特徴であるが、「天満切子」はU字形の刃で削り、手磨きと言われるつや出しを施すことでシンプルでかつ、美しい仕上がりとなっている点に特徴がある。その様はお酒を入れると光の屈折で底から模様が上がってくる万華鏡のように輝いている。2019年(令和元年)に大阪で開催されたG20大阪サミットでは、世界の各国首脳に天満切子が贈呈され、また、2025年に開催が予定され

第25回 岐阜県大垣市   〜木曽ヒノキと水運の地の利を生かした1300年続く全国シェア8割の木製木枡

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 岐阜県大垣市。人口は約15万7千人。ここは『水の郷』と認定された豊富な水運がある。かつては戦国時代、天下人・秀吉が織田信長の家臣の時代に7年という長い月日、美濃攻めで苦戦をしていた際、秀吉が築いた墨俣一夜城で勝利のきっかけを掴んだ歴史がある。昼間に木曽川の上流に行き、木を伐採してイカダで木曽川を下って運び、夜中に墨俣に一夜城を築いた話である。この戦いの勝利で秀吉は出世街道を駆け上った。  同様に水運を使って木曽ヒノキを運び、栄えた地場産業が今もある。木製の木枡である。全国シュア80%を誇り、今でも年間で200万個出荷し、1300年続いている一大産業である。木曽、東濃など日本有数のヒノキの産地に大垣市は近く、良質のヒノキを手にして、なおかつ、木曽川や長良川、揖斐川といった水運に恵まれたことが大きな発展を遂げた。まさに地の利を生かしたといっても過言ではない。  枡は歴史上、重要な役割を果たしてきた物品でもある。戦国時代には織田信長が商業経済発展のために、秀吉は太閤検地の際の基準のために枡の統一をなし、徳川家康は京枡一本にして統一していった。三人の名将たちによって、枡の基準や容量も同時に統一されるなど、それほど、枡は経済安定のために欠かせないものだった。  大垣の枡づくりの始まりは、明治時代に木曽からヒノキが集まる名古屋から、一人の職人が大垣にやってきたことに由来する。枡は一般的に高級な木材と言われるヒノキを原料として、お米などの穀物や、酒、油、芋などの人間が食料を計る道具としての役割を果たしていた。1966年(昭和41年)の計量法の改正で、お米の計量器という役割から樽酒を振る舞う酒器として、祝賀パーティーや結婚式を華やかに演出したり、神仏に備えるお供物の器などとして、1300年の伝統と歴史を守ってきた。現在でも大垣市内では、4社の枡製造業者が枡づくりを継続している。  大垣市は冒頭でも示したとおり、国土交通省より『水の郷』の認定を受けた水の都。生産量は少ないが、知る人ぞ知る「わさび」の街でもある。豊富な地下水に恵まれた恩恵が枡づくりのみならず、わさびづくりにも活かされている。  最後に大垣市で忘れてはならない人物がいる。俳人の松尾芭蕉である。当時46歳の芭蕉が、1689年に江戸深川を起点として奥州や北陸道を通り、約2400キロの道のりを約150日かけた旅の「終焉の地」