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第28回 福島県会津若松市   〜地名の名付け親・蒲生氏郷と将軍の隠し子・保科正之が奨励保護して発展した会津塗(漆器)

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人口約11万人の福島県会津若松市。幕末に新政府軍と戦った少年兵で組織された白虎隊の悲劇が頭に浮かぶ土地である。 二代将軍・秀忠の隠し子であり会津藩祖でもある保科正之公が徳川に絶対的な忠誠を誓っていたことから徹底抗戦したと言われている。この会津若松市には、江戸時代から多くの伝統産業が残されている。とりわけ福島県のお酒は評価が高く、明治時代から続く「全国新酒鑑評会」で7年連続で金賞受賞数が日本一である。中でも、鶴乃江酒造の「会津中将」という銘柄は保科正之公の官位から名づけられた名酒である。  会津若松市に伝統産業が多いのは、1590年に伊勢松坂から入封した蒲生氏郷の影響が大きい。当時の天下人・豊臣秀吉が同じ東北の伊達政宗をけん制するために、わざわざ氏郷を会津に移した。そして、氏郷は当時、黒川だった地名を「若松」に替えた。氏郷の故郷である日野の「若松の杜」に由来して名付けられたようだ。(1955年・昭和30年に北九州市若松区と混同回避するために現在の会津若松市となった経緯がある)  その氏郷がこの若松の地に根付かせたのが「会津塗」である。会津塗はよく知られる津軽塗や輪島塗よりも早くから盛んだったが、氏郷は産業として奨励するために近江国から木地師と塗師を招き基礎を作り上げた。そして、「塗大屋形」という漆器の伝習所を作り、職人の養成や技術の向上に努めさせた。以後、会津塗は地場産業として保護されていく。  その会津塗を大きく発展させたのが、冒頭に触れた保科正之公である。1643年に藩主となった正之は、漆の木の保護育成に努めた。藩内の漆の木は江戸時代初期は20万本ほどであったが、江戸時代中期の1700年頃には100万本を超えるまでになった。歴代藩主たちも会津塗を保護・奨励していった。そして、江戸へ売り出し、江戸時代後期には中国やオランダに輸出もしていた。江戸時代を通じて、会津塗は大きく発展成長していったのである。会津塗が産業として大きく発展することができた3つの要因がある。まずは、盆地特有の湿潤な気候により、漆を扱うのに適していたこと。次に、周囲を山々に囲まれ木材に恵まれていたこと。最後に代々の藩主たちが会津塗を保護したことにある。  しかし、江戸時代が終わりを告げて新政府軍との戊辰戦争が起こると、会津の街は焼野原となり荒廃してしまう。一時的に会津塗は衰退したが、1872年(明治

第27回 山梨県甲府市   〜戦国の名将・武田信玄公が治水工事で整備した日本一のジュエリー(宝飾品)の街

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 人口約19万人の山梨県甲府市。 戦国時代、風林火山を旗印にした名将・武田信玄公が統治した街である。戦国最強軍団を率いて戦に強いというイメージがあるが、治水工事にも長けた経営者でもある。昔、甲府の街は洪水が多く、田畑の氾濫が相次いだ。信玄公が武田の当主となり20年という長い歳月をかけて治水工事を行い街を整備した。現代でも山梨県の人々から英雄とされ、『信玄公』と呼ばれている所以がここにある。この甲府の街に江戸時代から続いている伝統産業がある。水晶から宝石や貴金属を作る研磨加工である。                       始まりは江戸時代末期、甲府の北部にある金峰山一帯で水晶の原石が多く採掘されたことにある。1834年にその水晶を研磨する職人を京都より招き、研磨技術を応用して宝石の加工が始められ、国内向け以外にも外国商館にも販売された。明治時代に入ると政府の勧業政策に取り入れられ、明治中期には水晶玉や水晶の置物に加え、ブローチ用の水晶のカットも行われるなど、水晶工芸と貴金属工芸という2つの産業が結びついた。    明治後期から大正時代初期、水晶の研磨加工が機械化や電化されたことによって、手磨きから円盤磨きへと変わり、量産の基盤が確立されていった。その後、甲府の水晶の枯渇が顕著になり、代わりにブラジル産の水晶が大量に輸入されるようになった。結果、同一規格品の量産が可能になり、国内の販路拡張に伴って水晶細工や水晶首飾りがアメリカに輸出されたり、中国大陸への販売などによって、甲府の研磨宝飾品が全国に知られるようになった。  しかし、戦争が始まると研磨加工業者は水晶発振子や光学レンズなどの軍需研磨品の生産体制へと組み込まれたり、1940年(昭和15年)の奢多品等製造販売制限規制によって転廃業が進み、大きな打撃を受けた。戦後、進駐軍が首飾りやイヤリング、指輪などの水晶細工を土産品として大量に購入したことが甲府の宝石産業の復活となった。      進駐軍のブームが去ったあと、国内向けの生産が本格的に開始され、身辺装飾品に限らず室内装飾品や工業用品など多様な品種が量産されるようになった。高度経済成長期には次第に高級品へと移行し、ダイヤモンドをはじめイエローゴールド、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使った中級、高級製品の加工に取り組み、宝飾品の高級化や多様化を求める市場の

第26回 大阪府大阪市   〜明治時代から隆盛を極めた大阪ガラス産業の灯を守り続ける「天満切子」

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    かつて、戦国時代には天下人・豊臣秀吉が豪華絢爛な大坂城を築き、江戸時代には日本海ルートの西回り航路で、蝦夷(現在の北海道)や日本海沿岸の特産物が入り、『天下の台所』として栄えた大阪市。現在の北区堂島には、西国大名らの蔵屋敷が置かれるなどして賑わった。大阪市の人口は約275万人。大阪市では明治時代から大正、そして昭和の戦前までガラス産業が隆盛を極めた。学問の神様として知られる大阪天満宮の正門横には、「大阪ガラス発祥之地」という碑が立っている。  大阪のガラス産業の発祥は、1751年に長崎のガラス商人である播磨屋清兵衛が天満宮前で工場を作り、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を大阪に持ち込んだことにある。1819年には渡辺朝吉が天満にガラス工場を作った。江戸でもガラス産業は始まっていたが、大阪が少しばかり早かったようだ。大阪のガラス産業が発展した要因として、「水の都・大阪」と言われたとおり、ガラスの量産に必要なケイ砂や燃料となる石炭を運ぶ手段として水運が発達していたことにある。明治時代になると、イギリスから新しい製造技術が伝わり、大阪のガラス産業は発展した。1875年(明治8年)に伊藤契信が与力に、1882年(明治15年)には、島田孫市が天満にガラス工場を作り天満切子のルーツとなった。  「天満切子」は、北区与力と同心界隈を中心に発展していき、当時は江戸切子で知られる東京を凌ぐほど隆盛を極めていた。また、昭和の高度経済成長あたりまで、子供たちに人気のあったガラスのビー玉が始めて国産化されたのも大阪市北区である。第二次大戦後、大阪市内でのマンション建設などに伴う郊外への工場移転に始まり、近年では国内での競争や、安い輸入品に押されるなどして、大阪のガラス産業は衰退しガラス工場は消えてしまったが、「天満切子」の工房は今でも残っている。  切子と聞くと、江戸切子や鹿児島の薩摩切子が有名だが、これらはV字形の刃を用いた模様が特徴であるが、「天満切子」はU字形の刃で削り、手磨きと言われるつや出しを施すことでシンプルでかつ、美しい仕上がりとなっている点に特徴がある。その様はお酒を入れると光の屈折で底から模様が上がってくる万華鏡のように輝いている。2019年(令和元年)に大阪で開催されたG20大阪サミットでは、世界の各国首脳に天満切子が贈呈され、また、2025年に開催が予定され

第25回 岐阜県大垣市   〜木曽ヒノキと水運の地の利を生かした1300年続く全国シェア8割の木製木枡

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 岐阜県大垣市。人口は約15万7千人。ここは『水の郷』と認定された豊富な水運がある。かつては戦国時代、天下人・秀吉が織田信長の家臣の時代に7年という長い月日、美濃攻めで苦戦をしていた際、秀吉が築いた墨俣一夜城で勝利のきっかけを掴んだ歴史がある。昼間に木曽川の上流に行き、木を伐採してイカダで木曽川を下って運び、夜中に墨俣に一夜城を築いた話である。この戦いの勝利で秀吉は出世街道を駆け上った。  同様に水運を使って木曽ヒノキを運び、栄えた地場産業が今もある。木製の木枡である。全国シュア80%を誇り、今でも年間で200万個出荷し、1300年続いている一大産業である。木曽、東濃など日本有数のヒノキの産地に大垣市は近く、良質のヒノキを手にして、なおかつ、木曽川や長良川、揖斐川といった水運に恵まれたことが大きな発展を遂げた。まさに地の利を生かしたといっても過言ではない。  枡は歴史上、重要な役割を果たしてきた物品でもある。戦国時代には織田信長が商業経済発展のために、秀吉は太閤検地の際の基準のために枡の統一をなし、徳川家康は京枡一本にして統一していった。三人の名将たちによって、枡の基準や容量も同時に統一されるなど、それほど、枡は経済安定のために欠かせないものだった。  大垣の枡づくりの始まりは、明治時代に木曽からヒノキが集まる名古屋から、一人の職人が大垣にやってきたことに由来する。枡は一般的に高級な木材と言われるヒノキを原料として、お米などの穀物や、酒、油、芋などの人間が食料を計る道具としての役割を果たしていた。1966年(昭和41年)の計量法の改正で、お米の計量器という役割から樽酒を振る舞う酒器として、祝賀パーティーや結婚式を華やかに演出したり、神仏に備えるお供物の器などとして、1300年の伝統と歴史を守ってきた。現在でも大垣市内では、4社の枡製造業者が枡づくりを継続している。  大垣市は冒頭でも示したとおり、国土交通省より『水の郷』の認定を受けた水の都。生産量は少ないが、知る人ぞ知る「わさび」の街でもある。豊富な地下水に恵まれた恩恵が枡づくりのみならず、わさびづくりにも活かされている。  最後に大垣市で忘れてはならない人物がいる。俳人の松尾芭蕉である。当時46歳の芭蕉が、1689年に江戸深川を起点として奥州や北陸道を通り、約2400キロの道のりを約150日かけた旅の「終焉の地」

第24回 山口県萩市   〜明治維新のふるさとは、毛利家長州藩以来400年の歴史ある萩焼を生んだ

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 山口県萩市。人口は約4万3千人。萩と聞くと吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文など、日本を変えていこうと立ち上がった志士たちの名が浮かぶ人々も多いのではないだろうか?萩の街が『明治維新のふるさと』と言われる所以がここにある。この萩の街に400年以上続いている伝統産業がある。萩焼である。佐賀・有田焼ほど知名度はないが、「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれるほど、国内外から芸術性が高く評価されており、2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品の指定を受けている。観光土産としても幅広い層から支持を集めている。  萩焼の始まりは毛利輝元公にある。周知のとおり、輝元公は1600年(慶長5年)の天下分け目の関ケ原の戦いで西軍総大将に祭り上げられて徳川家康の東軍に敗れ、120万石の領地を周防・長門の二国に大幅に削減された。その後、当時は交通の要衝だった瀬戸内海沿岸に城を築くことは徳川幕府から許されず、日本海側の萩の地で生きていかねばならなくなった。1604年(慶長9年)に萩城は完成し、輝元公は朝鮮から二人の陶工を萩に招いた。そこで、藩の御用窯を開き萩焼の始まりとなった。長州藩のみならず徳山藩などの毛利一族の御用釜として寄与し、「高麗茶碗」の技芸を持つ陶工によって、朝鮮王朝の様式に伝承する茶陶を中心に発展した。  萩市は窯業として有名な街であり数多くの陶工を輩出した。萩焼の大きな特徴は焼き上がりの土にやわらかさとその吸水性にある。主原料である「大道土」と萩市の離島である見島から「見島土」という2種類の土が使われている。吸水性があるので長年使っていると、器の表面にある細かいヒビ模様が現れて茶碗の趣が変わり、茶人の間で「萩の七化け」と言われて珍重されている。  萩焼は明治時代に入ると藩の御用窯は民営化され、苦しい経営を余儀なくされたが、1877年(明治10年)に内国博覧会で坂高麗左衛門が鳳紋賞碑を受賞して注目された。太平洋戦争に突入した物資欠乏の時代には、「工芸時術保存資格者認定」のもとで萩焼の伝統を維持。戦後の混乱期には日用雑器を中心として生産し、戦後の人々の暮らしを支えた。高度経済成長期に入ると、茶道や焼き物が盛り上がりを見せて萩焼の需要が拡大。現在では個人作家の作陶が中心となり、100を超える窯元が萩市内には存在している。そして、毎年5月の大型連休と秋に萩焼祭りが開かれており、多くの来場

第23回 高知県高知市   〜初代藩主・山内一豊公より400年続く藁焼きカツオで消費量日本一

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 犬猿の間柄だった薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟の締結に奮闘した幕末の風雲児・坂本龍馬、龍馬の盟友で京都・近江屋で運命を共にした中岡慎太郎、最後の将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提言した山内容堂、並びに三菱グループの創始者・岩崎弥太郎や自由民権運動で知られる板垣退助など、多くの人々の名が浮かび上がる土佐藩。現在の高知市だが人口は32万人。ここはカツオの消費量と消費金額がともに2位以下を圧倒するカツオの街である。  高知市内にはカツオのたたきを提供する水産加工業者や小売飲食店が数多ある。特にカツオのたたきは『藁焼き』が全国的に有名だ。カツオは「初鰹」と言って3~5月、「戻り鰹」として9~11月と年に二度、旬の時期がある。高知市内で提供されるカツオのたたきは、前述のとおり藁で焼かれ、中身は少しレアで食されるのが通常である。この藁焼きの由来は400年遡ることになる。関ケ原の戦いが終わった1601年(慶長6年)に、土佐藩20万石の初代藩主として入国した山内一豊が始まりである。  土佐藩の漁師たちはもともと生でカツオを食べていたが、当時多く発生していた生食による食中毒を防ぐために、一豊はカツオを生で食べることを禁ずるお触れを出した。漁師たちは殿さまの言うがままにカツオを焼いて食べていたが、最後まで火が通っていないレアなものもあったという。そこで、せっかくなので食べてみようか、ということで食してみると、とても旨かったという。これが高知市で藁焼きが現代に伝わっている説とも言われている。  現在、カツオのたたきは全国的にはポン酢で食されることが多いが、本場・高知市では『塩たたき』で提供されることが普通である。カツオを藁焼きにして焼きたての熱々を天日塩で食べるのが極上のようだ。藁は火力が非常に強く、約1000度に達するまで瞬時にカツオの表面をムラなく焼き上げる。結果、藁の煙や香りはより一層風味を引き立てている。カツオの皮目をパリッとするまで炙り、中にまで熱が伝わらないように熱いまますぐに切り分けるので、焼きたての香ばしい香りが食欲をそそいでいる。藁焼きにすると余分な水分が抜け、濃厚な味わいになるという。  ちなみに、藁焼きで使われる藁は高知県産のものを使っている。ただ、高知県内の農家の高齢化や、人口減少に伴う後継者不在が重なり藁の確保が年々難しくなっている課題も浮かび上がっている

第22回 鹿児島県鹿児島市   〜100年の時を経て復活。西郷どんを見出した名君・島津斉彬公が残した薩摩切子

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 明治維新を成し遂げた西郷隆盛と大久保利通。日露戦争においてバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎など、数多くの偉人を生み出した旧薩摩藩の鹿児島市。人口は59万人。 中でも冒頭の西郷を見出した28代薩摩藩主だった島津斉彬公は国の将来を憂い、「集成館」という工場を作り、製鉄や造船、紡績、ガラスなど多くの事業を生み出した名君である。  その中でも、一度は途絶えながらも100年の時を経て、1985年(昭和60年)に復活した事業がある。現代において多くの方々が知る『薩摩切子』である。斉彬公は集成館事業の一環として、長崎から伝来した外国のガラス製造に関する書物をもとに江戸からガラス職人を招く。そして、世界への輸出を目的としてガラス工芸品を生み出した。そのガラス工芸品は将軍家への献上品として、また全国各地の大名に贈答品とされるなど薩摩藩の殖産興業の一つとして高い評価を受け、日本初の発色に成功したガラスは「薩摩の紅ガラス」と呼ばれた。しかし、1858年(安政5年)にその斉彬公は急死。その後、薩英戦争や明治維新、西南戦争などでガラス工芸づくりが途絶えた。  そんな状況の中、薩摩のガラス工芸品を復活させたいと職人が集い、『薩摩切子』が誕生した。ガラスの切子は現在でも東京や大阪でも作られているが、『薩摩切子』には「ぼかし」という特徴がある。「ぼかし」とは、透明ガラスの上に色ガラスを厚く被せ、様々な文様を彫っていく卓越したカット技術で生み出され、そのグラデーションの様は見る者に温かみを感じさせるものである。『薩摩切子』はクリスタルガラスとも言われ、透明度と光の屈折率が高く、高品質で無色透明なガラスで輝きが水晶のようであることから名付けられた。  全国的に知名度が高い江戸切子との違いは先述した「ぼかし」のほか、すっきりとした単文様のデザインが好まれる江戸切子に対し、『薩摩切子』では複数の文様が組み合わされたゴージャスなものが多く、デザインにも違いが見られる。その『薩摩切子』は復活から12年後の1997年(平成9年)に鹿児島県から伝統的工芸品として指定を受けた。(但し、まだ経済産業省の伝統的工芸品としての指定は受けていない)  『薩摩切子』を後世に残した斉彬公だが、現代において鹿児島市の銘菓として有名な『軽羹(かるかん)まんじゅう』がある。これも斉彬公が生み出したものと言っても過言ではない。江