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第23回 高知県高知市   〜初代藩主・山内一豊公より400年続く藁焼きカツオで消費量日本一

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 犬猿の間柄だった薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟の締結に奮闘した幕末の風雲児・坂本龍馬、龍馬の盟友で京都・近江屋で運命を共にした中岡慎太郎、最後の将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提言した山内容堂、並びに三菱グループの創始者・岩崎弥太郎や自由民権運動で知られる板垣退助など、多くの人々の名が浮かび上がる土佐藩。現在の高知市だが人口は32万人。ここはカツオの消費量と消費金額がともに2位以下を圧倒するカツオの街である。  高知市内にはカツオのたたきを提供する水産加工業者や小売飲食店が数多ある。特にカツオのたたきは『藁焼き』が全国的に有名だ。カツオは「初鰹」と言って3~5月、「戻り鰹」として9~11月と年に二度、旬の時期がある。高知市内で提供されるカツオのたたきは、前述のとおり藁で焼かれ、中身は少しレアで食されるのが通常である。この藁焼きの由来は400年遡ることになる。関ケ原の戦いが終わった1601年(慶長6年)に、土佐藩20万石の初代藩主として入国した山内一豊が始まりである。  土佐藩の漁師たちはもともと生でカツオを食べていたが、当時多く発生していた生食による食中毒を防ぐために、一豊はカツオを生で食べることを禁ずるお触れを出した。漁師たちは殿さまの言うがままにカツオを焼いて食べていたが、最後まで火が通っていないレアなものもあったという。そこで、せっかくなので食べてみようか、ということで食してみると、とても旨かったという。これが高知市で藁焼きが現代に伝わっている説とも言われている。  現在、カツオのたたきは全国的にはポン酢で食されることが多いが、本場・高知市では『塩たたき』で提供されることが普通である。カツオを藁焼きにして焼きたての熱々を天日塩で食べるのが極上のようだ。藁は火力が非常に強く、約1000度に達するまで瞬時にカツオの表面をムラなく焼き上げる。結果、藁の煙や香りはより一層風味を引き立てている。カツオの皮目をパリッとするまで炙り、中にまで熱が伝わらないように熱いまますぐに切り分けるので、焼きたての香ばしい香りが食欲をそそいでいる。藁焼きにすると余分な水分が抜け、濃厚な味わいになるという。  ちなみに、藁焼きで使われる藁は高知県産のものを使っている。ただ、高知県内の農家の高齢化や、人口減少に伴う後継者不在が重なり藁の確保が年々難しくなっている課題も浮かび上がっている

第22回 鹿児島県鹿児島市   〜100年の時を経て復活。西郷どんを見出した名君・島津斉彬公が残した薩摩切子

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 明治維新を成し遂げた西郷隆盛と大久保利通。日露戦争においてバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎など、数多くの偉人を生み出した旧薩摩藩の鹿児島市。人口は59万人。 中でも冒頭の西郷を見出した28代薩摩藩主だった島津斉彬公は国の将来を憂い、「集成館」という工場を作り、製鉄や造船、紡績、ガラスなど多くの事業を生み出した名君である。  その中でも、一度は途絶えながらも100年の時を経て、1985年(昭和60年)に復活した事業がある。現代において多くの方々が知る『薩摩切子』である。斉彬公は集成館事業の一環として、長崎から伝来した外国のガラス製造に関する書物をもとに江戸からガラス職人を招く。そして、世界への輸出を目的としてガラス工芸品を生み出した。そのガラス工芸品は将軍家への献上品として、また全国各地の大名に贈答品とされるなど薩摩藩の殖産興業の一つとして高い評価を受け、日本初の発色に成功したガラスは「薩摩の紅ガラス」と呼ばれた。しかし、1858年(安政5年)にその斉彬公は急死。その後、薩英戦争や明治維新、西南戦争などでガラス工芸づくりが途絶えた。  そんな状況の中、薩摩のガラス工芸品を復活させたいと職人が集い、『薩摩切子』が誕生した。ガラスの切子は現在でも東京や大阪でも作られているが、『薩摩切子』には「ぼかし」という特徴がある。「ぼかし」とは、透明ガラスの上に色ガラスを厚く被せ、様々な文様を彫っていく卓越したカット技術で生み出され、そのグラデーションの様は見る者に温かみを感じさせるものである。『薩摩切子』はクリスタルガラスとも言われ、透明度と光の屈折率が高く、高品質で無色透明なガラスで輝きが水晶のようであることから名付けられた。  全国的に知名度が高い江戸切子との違いは先述した「ぼかし」のほか、すっきりとした単文様のデザインが好まれる江戸切子に対し、『薩摩切子』では複数の文様が組み合わされたゴージャスなものが多く、デザインにも違いが見られる。その『薩摩切子』は復活から12年後の1997年(平成9年)に鹿児島県から伝統的工芸品として指定を受けた。(但し、まだ経済産業省の伝統的工芸品としての指定は受けていない)  『薩摩切子』を後世に残した斉彬公だが、現代において鹿児島市の銘菓として有名な『軽羹(かるかん)まんじゅう』がある。これも斉彬公が生み出したものと言っても過言ではない。江

第21回 福井県福井市      〜朝倉文化で栄華を誇った小京都から時代を常にリードする全国屈指の繊維王国へ

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 北陸地方は繊維産業が盛んな地域だが、中でも福井市は全国でも屈指の繊維王国である。人口は約26万人。ナイロンやポリエステルなどの合成繊維長繊維織物では日本有数の産地である。合繊長繊維織物の分野では、全国生産量の約4割を占めている。温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優美な絹織物の生産が盛んだった。絹織物は江戸時代、福井藩の財政を支える重要な品目となっていた。  その福井藩の初代藩主は結城秀康。あの天下人・徳川家康の次男である。秀吉の人質となり、下野・結城家に養子に出され、結城性を名乗っている。1600年に福井に入った秀康は「玉紬」を「北荘紬」と改称し、藩士の内職として奨励。品質の改良や販路の拡張に努め、公儀献上品の一つにしたと言われている。さらに「北荘紬」を「奉書紬」と改称し、高い品質は全国に広く知られるようになり生産量が急増。藩の財政基盤となったのである。  しかし、藩財政が逼迫したまま明治維新に突入。1872年(明治4年)欧米視察から帰国した由利公正が絹布見本を持ち帰り、福井の繊維産業を近代化に導く。最新鋭の製織技術を導入し輸出向けを中心とした羽二重織物の生産が盛んとなった。その後において、主な生産品目をレーヨンや合成繊維と変えていき、福井の繊維産業は生き残っていった。生産品目を頻繁に変えていったことによって、現在でも地域経済を支える力となっている繊維産地は皆無に等しい、非常に稀有な地域と言っても過言ではない。  大正、戦前の昭和時代を経て、設備の近代化が大幅に進み、人絹糸の国内生産が質と量ともに本格的となり、黄金時代を迎えた。戦後の苦境を乗り越えた後、合繊糸が登場。人絹織物から合繊織物へシフト。昭和30年代にナイロンが、昭和40年代にはポリエステルが登場して高度成長。カーシート材で大きく成長発展したセーレンを中心に世界最大規模の長繊維産地へと発展した。  しかし今、繊維業界は海外からの安価な製品が流入して厳しい状況を迎えている中、福井の繊維産業はファッションやスポーツ、レジャーといった身近なシーンから、建設・機械といった産業分野、医療、航空や宇宙産業まで幅広く繊維製品を提供している。  福井市は繊維産業のみならず、銀杏材木工品、越前和蝋燭、三国箪笥などの伝統産業がある。また、一乗谷で5代103年統治した朝倉家が朝倉文化を築き、小京都として栄華を極めた。現在、国の三

第20回 山形県米沢市      〜大手メーカー・帝人を生んだ名君・上杉鷹山公より続く世界に誇る米沢織

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 米沢、と耳にしてすぐ頭に浮かぶのが日本三大和牛の一つ「米沢牛」だと思われる。その米沢市は人口約8万人。『義』で知られる戦国武将・上杉謙信を藩祖にもつ名門・上杉家のお膝元である。その上杉家9代藩主・上杉鷹山により現代に伝わる事業として「米沢織」がある。  1601年に関ケ原の戦いに敗れた上杉家が会津120万石から米沢30万石に大幅に石高を削られて窮乏した際、藩主・上杉景勝の参謀だった直江兼続が、財政再建の一環で青苧や絹を生む蚕の餌となる桑、さらには染料となる紅花などの栽培を家臣たちに奨励したのが米沢織のはじまりである。  約170年の時を経て、米沢9代藩主に就任したあの名君と誉れ高い上杉鷹山が、破綻寸前だった藩の財政を救った。武家の婦女子に機織りを習得させ、養蚕業奨励のために京都から織物師を招いて織物産業に注力し、発展させた。紅花や藍などの植物染料で糸を染めて織る先染めの技術で米沢織が全国に知られるようになった。さらに明治時代から昭和の時代には、動力を利用した「力織機」を導入して生産設備が強化され、インドやアメリカへの輸出取引に発展した。  明治時代、米沢には2つの工業学校が設立された。明治30年4月に米沢工業高校が開校。さらに明治43年には米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)が開校して地元企業との共同開発が盛んとなった。同校の教授を務めた秦逸三氏が大正4年に「東レザー分工場米沢人造絹糸製造所」で人工絹糸の製造を開始。大正6年に成功し、後に現在の帝人が創設された。人工絹糸はレーヨンとも呼ばれ、今日の化学合成繊維糸を駆使する土台を形成。現在、ハイテク繊維やマイクロファイバーなどを使う新合繊産地につながっている。  米沢織は今日、高品質な織物で知られ、婦人服地の分野で技術開発してきたので繊維の分野では世界一と言われるイタリアのコモに匹敵する技術力を有するまでに発展している。また、袴の分野では全国シェア95%以上を占めており日本一を誇っている。  ここで米沢織が今日まで発展してきた要因として3つ挙げておきたい。まずは米沢という豪雪地帯で屋内での作業を強いられたこと。次に古くから養蚕業が盛んだったことから、青苧や紅花などの原料が豊富にあったこと。そして、名君・鷹山公からの常に新しい商品開発に挑戦してきた気質がある。米沢は撚糸、染色、仕上げ、縫製、捺染、ニット、紡績など関

第19回 神奈川県小田原市   〜魚の宝庫・相模湾と箱根の伏流水に恵まれた200年の小田原かまぼこ

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神奈川県西部に位置する小田原市。人口は約18万人。天下人・徳川家康が江戸に入るまで、関東一円を支配していた後北条氏が首都に定めた500年の歴史を持つ城下町である。多くの種類の魚が取れ、箱根の伏流水に恵まれて約200年前の江戸時代後期から作られているものがある。かまぼこである。小田原を代表する名産品と言っても過言ではない。かまぼこ通りが駅前にある。  小田原かまぼこの始まりは、今から約200年前の大久保氏が小田原藩主を務めていた時代に魚の保存利用として生まれた。相模湾で漁獲される魚の評判を聞いて日本橋から移り住んできた職人が、相模湾で獲れるオオギスを原料に板かまぼこを完成。小田原は東海道五十三次の中でも特に賑わう宿場町で参勤交代などの人の往来が多く、板にすり身を扇形に盛り付けた形の小田原かまぼこが全国に広まった。  明治時代から大正時代にかけて、相模湾で獲れるオオギスやクロムツ、イサキなどを主原料として発展。昭和時代に入ると生産量が増大し、地元の魚だけでは賄いきれなくなった。そこで、下関や長崎などの遠方から運んだ「グチ」という魚を使うことになる。「グチ」は独特な弾力があり、小田原かまぼこの特徴でもある「あし」と呼ばれる弾力を生み出した。戦後、技術の進歩によって冷凍すり身に変わっていき、小田原かまぼこも「グチ」の冷凍すり身を使うようになり「グチ」の使用量が全国一となった。  かまぼこの製造工程には「魚の身を取る」「水にさらす(洗う)」「身をする」という3つの工程があり、かまぼこづくりには水が欠かせない。小田原の水は軟水の中でも少し硬度が高く、ミネラル分が多い。これがかまぼこづくりに適している。水が変わると「さらしがきかない」という事が起こる。小田原の水はミネラル分が豊富な地下水だからこそ、余分な脂分と臭みを落とし、上品な魚の旨味だけを残したかまぼこづくりができる。鉄分やカルシウムなどミネラル分が豊富な箱根の豊かな伏流水が重要な役目を果たしている。まさに豊富な魚が獲れる相模湾と箱根の伏流水に恵まれた環境の恩恵は大きい。  小田原から箱根登山鉄道に乗り2つ目の「風祭」駅で降りると、改札を出た目の前に「かまぼこの里」がある。これは1865年創業の老舗かまぼこ企業・鈴廣の本社工場。かまぼこを中心に地元の食産物も販売しており、多くの来場者で賑わっている。中の一角には「かまぼこ博物

第18回 大阪府堺市      ~世界の料理人たちが絶賛する600年の歴史ある業務用刃物でシェア90%の堺打刃物

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 全国に20ある政令指定都市の一つに数えられる堺市。人口は約82万人。戦国時代に織田信長が支配した貿易都市である。堺は紀州・根来、近江・国友と並び鉄砲の三大生産地でもあり、火縄銃の火薬の原料となる硝石を堺を通じた貿易で手に入れ、鉄砲の生産に力を入れたことで知られている。その堺に世界中の料理人たちが絶賛しているものがある。包丁である。別名「堺打刃物」といい、業務用刃物の生産量では90%のシェアを占め、1982年(昭和57年)3月に伝統的工芸品として指定を受けている。  5世紀に仁徳天皇陵古墳の築造のため、鍬や鋤などの鉄製道具を作る職人集団が定住し、鍛冶技術が発達。その後、16世紀にポルトガルからタバコが伝わると、その鍛冶技術を生かして、タバコの葉を刻む「タバコ包丁」の製造が盛んとなり、徳川幕府から『堺極』という極印を入れて販売することが認められて全国に専売。結果、堺刃物が知れ渡りこれが現代につながって、世界の料理人が唸る切れ味鋭い料理用包丁がシェア90%を占めている。  堺刃物の特徴は、職人の手で素材となる軟鉄や鋼を真っ赤に熱して金槌で叩き延ばす『鍛造』という技法で作られる「打刃物」。叩くことで金属内部の組織を密にして強度と粘り強さを高め、極上の切れ味と耐久性、美しさを生み出すことにある。打刃物の包丁は『片刃構造』が基本で刃は鋭角で切れ味は鮮やか、食材の断面も美しい。食材の繊維や細胞膜を壊すことなく切れ、素材のうまみを中に閉じ込めることができる。これが世界の料理人たちから高く評価されている所以。欧州や中国、韓国、オーストラリアなど世界30を超える国と地域に輸出している。  堺刃物は「鍛造」「研ぎ」「柄付け」という大きく3つの工程から構成されており、分業制で各工程をそれぞれのプロの職人たちが手掛け、技術を高度に磨き上げることで、岐阜県関市や新潟県三条市といった他産地の追随を許さない最高品質を維持している。高級魚であるハモの小骨を切る「はも湯切包丁」やうどん・そばを切る「麺切り包丁」うなぎをさばく「ウナギ包丁」さらには製菓用の「菓子切り包丁」など様々な包丁がある。堺市内には市内20以上の工房が出品している「堺刃物ミュージアム」があり、海外からも多くの人々が訪れている。  堺には打刃物のみならず、シマノを中心とした自転車部品、昆布加工、線香、染め物の注染など多くの伝統産業が

第17回 北海道小樽市      〜レトロな雰囲気の街並みと歴史を感じさせるオルゴール発祥の街

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 北海道の中心地である札幌市の西隣に位置する小樽市。人口は約11万人。ガラス工芸やお寿司通りに代表されるが、明治時代、ロシアとの交易や石炭の積み出し港、ニシン漁の拠点として栄え、20の銀行が軒を連ねた『北のウオール街』として一世を風靡した街である。この街で昭和の戦後以降、レトロな雰囲気の街並みとその歴史や趣が合うことから、「オルゴール」の販売が始まりました。  オルゴールは、1796年にスイス・ジュネーブの時計師によって作られたが、日本には開国間もない頃に入って来た。鎖国をしていた幕府と唯一取引があったオランダ人が江戸の深川で見世物として公開したことが始まりである。生産の中心はスイスで、とても高価な品物だった。しかし、第二次世界大戦後、日本がこの流れを変えた。その発祥が小樽市である。技術的に難しいと言われたオルゴールのシリンダー製造を機械化による量産化を成功させ、当時、駐留していたアメリカ兵のお土産品として人気を博した。その後、世界中にマーケットを広げ、小樽のオルゴールが知られるようになったのです。  小樽市で「オルゴール堂」が設立されて日本最大のオルゴール専門店として注目を集めました後、1983年(昭和58年)には東京で、1985年(昭和60年)には山梨県清里でオルゴール博物館が開館。さらに全国の観光地でもオルゴール店が誕生し、日本でのオルゴールブームが始まりました。日本の台頭でスイスのメーカーは凋落し、今では世界シェアの90%を日本のメーカーが占めています。  小樽のオルゴール発祥として知られる「オルゴール堂」は、1912年(明治45年)から米穀商であった共成の本社屋を利用して始まり、今では小樽観光の定番として多くの観光客で賑わっています。小樽ではガラス工芸も盛んなことからガラス製のオルゴールや、お寿司通りとして知られる小樽には約120ものお寿司屋があることにちなみ、お寿司のオルゴールなども作られて販売されています。本館だけで種類は約3400、25000点以上のオルゴールが販売されています。この建物は1989年(平成元年)3月に小樽市の歴史的建造物として指定を受けており、建物前には蒸気時計が設置され、記念撮影のスポットとして大人気で、メルヘン交差点は多くの人々が訪れています。  最後に、小樽市には観光の定番として「小樽運河」が有名ですが、明治時代に小樽港は開拓の