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第11回 岩手県盛岡市       〜多数の偉人を輩出した街が誇る400年の時を紡ぐ南部鉄器

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 「武士道」が世界的なベストセラーとなった元国連事務次長の故・新渡戸稲造氏、平民宰相として現代の政党政治の礎を築き内閣総理大臣を務めた故・原敬氏、その他にも元海軍大臣で内閣総理大臣も歴任した故・米内光政氏など、多くの偉人を輩出した街である人口約29万人の盛岡市。ここに400年の歴史を重ねてきた伝統産業がある。南部鉄器である。同じ岩手県南部の奥州市水沢にある南部鉄器とは歴史や趣が少し異なっている。(但し、水沢鋳物を含めて南部鉄器という総称を用いている。)  盛岡市の南部鉄器は、江戸時代初期に茶道を嗜む南部藩三代藩主・南部重直が、京都から釜師を招いて茶釜を作らせたのが始まりだと言われている。南部家庇護のもとにお抱えの釜師や鋳物師を切磋琢磨させながら、鉄器づくりが発展した。元々、盛岡には砂鉄や岩鉄などの良質な鉄の原料があり、市内を流れる北上川の川砂や粘土、漆、木炭など鋳物に必要な原料が豊富に産出された。これが南部鉄器が地場産業として栄えた大きな要因である。  南部鉄器は、国内のみならず海外からも高い評価を受けている。特に中国ではお茶の文化が根付いており、茶釜や鉄瓶を買い求めて現地に足を運んでいたようである。盛岡市の郊外に「手作り村」があり、そこには大型観光バスが駐車場に立ち並んである光景を目の当たりにしている。品質の高さや、使い手目線に立った造形が魅力的なようだ。また東南アジアやヨーロッパ諸国からも人気がある。  この南部鉄器も苦境の時代があった。戦時中は軍需品以外の製造が禁止され、存続の危機に陥ったこともある。当時の政府に陳情して少人数ではあるが生産することが許され、何とか南部鉄器という産業を守ることができたようだ。  その南部鉄器は、1975年(昭和50年)2月に当時の通商産業省から「伝統的工芸品」第1号として指定を受けている。盛岡市内には南部鉄器を使った街灯があり、街にも根付いている。市内には10軒の南部鉄器の工房があり、一つの製品を作るのに約2か月を要し、今では注文をすると3年待ちの状況らしく活況を呈している。それぞれの工房では持ち手以外の全工程を担う一貫生産をしており、分業制で作り大量生産にも対応できる水沢の南部鉄器とはこの点が異なる。  盛岡市内には、1902年創業の老舗企業「岩鋳」がテーマパーク型工場である「岩鋳鉄器館」を開設している。南部鉄器の製品を購入す

第10回 さいたま市岩槻区    〜ひな祭り・端午の節句など日本の文化を現代に伝えた岩槻の人形

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 商都の大宮、文教の浦和、その中間に位置する与野、これら三つの都市が2001年に合併し、さらに2005年には人形の岩槻が加わり、人口130万人を超える現在のさいたま市が誕生した。最後に加わった岩槻は、1457年に太田道灌が岩槻城を築いた5万5千石の城下町でもある。  その岩槻は人形の街として全国に知られている。始まりは江戸時代後期。城下町であった岩槻は日光御成街道の宿場町でもあった。元々、岩槻は桐の産地であり桐細工で有名だった。そこに日光東照宮の造営や修復にあたった工匠が住み着き、桐を使った箪笥が作られるようになった。桐粉が生じること、さらには良質な水にも恵まれて人形づくりが盛んになったと言われている。  岩槻の人形の特徴は、頭と目がやや大きくて丸顔で愛らしい作り、華やかな彩色が使われること、さらには人形の肌が滑らかで髪も人毛のような美しさにある。滑らかで美しい人形の肌は、膠(にかわ)と胡粉から作られ、髪に使われているのは生糸で人毛によく似た柔らかいものを使い、髪付師によって丁寧に作っている。  明治時代に入ると、五月人形などの岩槻の人形は生産が拡大し、国内有数の産地となって江戸時代の面影を伝えていった。1940年(昭和15年)には人形の生産は中止に追い込まれたものの、戦後は東京から人形職人が移住し、技術力がレベルアップ。宣伝広告活動も積極化して販路を全国に拡大させた。昭和の最期辺りでは、埼玉県の人形生産出荷額は国内の40%となり、うち岩槻の人形は70%を占め、人形は岩槻という地位を確立させた。  1978年(昭和53年)に「江戸木目込人形」が、さらに2007年(平成19年)には「岩槻人形」が経済産業省から伝統的工芸品の指定を受けている。岩槻は、五月人形や木目込人形、歌舞伎人形など、一つの産地で多様な人形の製造を手掛けているまさに人形の聖地といってよく、現代にひな祭りや端午の節句といった日本の文化を今に伝えてきたと言っても過言ではない。   提供:伝統産業ドットコム(一般社団法人 全国伝統産業承継支援)        こちらのサイトもご覧ください。                 伝統産業の事業引き継ぎは『伝統産業ドットコム』に     事業承継のセミナー・講演会を全国各地で開催しています         過去の開催実績はこちらをご覧ください。      LINE公

第9回 兵庫県三木市      〜天下人・秀吉による街の復興政策から始まり日本一に上り詰めた三木の金物

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 兵庫県の南東部にあり、東播磨に位置する三木市。人口約77000人。日本を代表する金物の街である。三木市が日本一の金物の街に発展した陰には、あの天下人・豊臣秀吉の存在がある。当時、三木市は別所氏によって統治されていた。そこに現れてきたのが秀吉である。1580年に秀吉は織田信長の命を受け、別所長治の居城・三木城を兵糧攻めで落城させた。その際、三木の街は秀吉によって寺や古い街並みが焼き払われ荒廃。その後に秀吉が三木の街の復興事業に着手。今の三木の街の礎を築いていった。  まず秀吉は、各地から大工職人を集め、彼らに必要な大工道具を作る鍛冶職人が増えて現在の発展につながっていく。復興が一段落すると大工職人は出稼ぎに出るようになり、持っていた大工道具が行く先々で評判となり、次に出向くときには品物として売りさばいていった。江戸時代後半、ノコギリ・カンナ・ノミのほかにハサミなどの刃物、ヤスリなどの生産品目も多くなっていく。1751年には、材料の仕入れや製品の販売に当たる仲買人が誕生し、その仲買人が大きくなって仲買問屋へと発展。1792年に「作屋」など5軒が仲買仲間を結成して運営を始めた。  三木の金物は主に大坂商人によって発展を遂げ、大坂中心の市場を形成した。1803年には江戸の炭屋七右衛門から引き合いを受け、江戸との取引が開始されて全国へと知られ、また、1880年(明治13年)頃からは、輸入され出した洋鉄や洋鋼を使い、製造工程の合理化で量産が可能となった。その結果、金物問屋だけでさばくことが困難となって直接、各地方へ出張販売し、ここから三木の金物は本格的に全国へ広がっていった。1945年(昭和20年)の第二次大戦終了後は、焼け野原と化した日本全国における復興事業で、大量の大工道具が必要とされて三木の金物の需要が急増。伝統的な大工道具のみならず、近代的な金物製品を生産販売する日本屈指の金物産地として発展し、日本一となった。  その三木の金物だが、1996年(平成8年)4月に「播州三木打刃物」として、経済産業省から国の伝統的工芸品の指定を受けた。さらに2008年(平成20年)に三木金物は地域団体登録商標(地域ブランド)として認められた。1952年(昭和27年)から三木市では、毎年11月第1土曜日・日曜日の2日間、「三木金物まつり」が開催されている。市内外から約18万人の来場者を迎え

第8回 愛知県名古屋市     〜400年の伝統が誇る 荒地が変身した街道一の街並みと日本一の有松・鳴海絞り

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「 尾張名古屋は城で持つ」と言われるほど、金の鯱(しゃちほこ)が代名詞となる名古屋城。この名古屋市は人口232万人の大都市である。1608年(慶長13年)に江戸に幕府を開いた徳川家康の九男・義直が初代尾張藩主を務めたが、その尾張藩が庇護して奨励した産業がある。有松絞りである。布をくくって染める絞りの技術で、様々な文様を描き出す木綿絞りのことで街道一の名産品ともいわれ、天下人・家康も大変気に入って愛用したものである。 この有松絞りは、手が醸し出す味わい磨き抜かれた匠の技が創り上げる精緻な模様と独特な風合いが特徴だ。一人一芸とも言われ芸術の域に達し、分業化された産業として発展していった。明治時代になると営業が自由となり、1900年(明治33年)にはパリ万国博覧会に出品し、6人の受賞者が生まれている。世界中に日本に有松ありを印象づけた。大正・昭和戦前には生産高は100~120万反となり、さらなる発展を遂げたが、戦時中は職人を徴兵に駆り出されて多くの事業者が廃業を余儀なくされ、厳しい時代もあったようだ。  戦後は生産が回復して、1975年(昭和50年)9月には「有松・鳴海絞り」として、当時の「通商産業省指定伝統的工芸品」として愛知県第1号の認定を受けるに至った。有松・鳴海地域は、全国一の絞り染め産地となっている。  有松という地だが、当初は雑草や松林で覆われた地で、耕作面積が極めて少なく、とても農業には向かない荒地だったが、農産物以外に何か特産品を、ということで誕生したのが有松絞りである。名古屋城の築城の際、九州豊後の大名の家臣が身に着けていた絞り染めに魅せられた竹田庄九郎が考案したと言われている。当初は手ぬぐいを販売していたが17世紀後半には浴衣が売れていった。さらに二代目・庄九郎は従来の藍染めに加え、紅染めや紫染めなどの染色技術を極めて100種類を数え、街道一の名産品とも言われ旅人の土産物として活況を呈した。有松の街は参勤交代で賑わう東海道一の宿場町としても栄え、当時の街道一の街並みの面影を残している町屋も立ち並んでいることから、有松の街並みは国選定重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。葛飾北斎や歌川広重が浮世絵に描いた街並みとしても知られている。毎年6月の第一土曜日と日曜日に「有松絞り祭り」は開催され、10万人以上の来場者が集まるほどの人気ぶりである。  提供:一

第7回 島根県奥出雲町     〜鉄の歴史1400年の灯は消さない「たたら製鉄」

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  今から1400年ほど前の奈良時代から、鉄を作り続けている地域がある。島根県奥出雲町である。中国山地の砂鉄と木炭を原料として、当時、世界一とも言われた高品質な鋼を生産し、江戸時代後期から明治時代初期にかけての最盛期には、全国の生産量の大半を占め、日本随一の鉄の生産地となっていた。  経営の維持には財力が必要であることから、旧松江藩は、田部家、櫻井家、絲原家の三家を鉄師として製鉄を許可。藩の財政を潤した。これら三家は、奥出雲三大鉄師と言われ、特に田部家は、1921年(大正10年)まで170年にわたって操業した。その後、安価な洋鉄が流入し1925年(大正14年)には一旦、生産は途絶えたが1931年(昭和6年)満州事変を契機に軍刀の需要に応え復活した。  現在の奥出雲町一帯が鉄の生産拠点だが、隣の安来市、雲南市でも鉄は生産され、特に安来市は日本海に沿った港町で、鉄の積み出しで栄え、北前船が行き交う鉄の交易の拠点だったようだ。奥出雲地方に広く分布する花崗岩は真砂土と呼ばれ、良質な砂鉄が今に伝わっている。土砂を河川に流して砂鉄を採取する仕草が安来節のドジョウすくい踊りの由来ともなり、そこから派生したドジョウすくい饅頭は安来市の銘菓ともなっている。  そんな鉄の生産も第二次大戦が終わると廃止となったが、1977年(昭和52年)に「日刀保たたら」として復活し、現在唯一操業している。製鉄の伝統技法を「たたら」といい、日本刀の材料となる玉鋼(たまはがね)を製造するのが「日刀保たたら」である。現在は日立金属支援のもと、玉鋼の製造と技術の伝承、技術者の養成を目的として、財団法人日本美術刀剣保存協会が運営している。1400年続く鉄の伝統の灯を消させまい、と毎年冬に数回操業して守っている。  733年に編纂された「出雲國風土記」には、この地で生産される鉄は硬く、多種多様な道具を作るのに最適、との記載がある。2016年4月(平成28年)には「鉄の道文化圏推進協会」の「出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」が文化庁の「日本遺産」に認定されている。現在、鉄の生産がなされていない跡地一帯は、広大な棚田に再生され、そこで作られたお米は「奥出雲仁多米」という高品質で高い評価がされている。     提供:一般社団法人 全国伝統産業承継支援(伝統産業ドットコム)           こちらのサイ

第6回 鹿児島県南九州市     〜平和を祈る街が生んだ全国市町村別でお茶生産量日本一の「知覧茶」

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  今年3月、農林水産省から2020年の都道府県別におけるお茶の産出額の統計データが発表され、50年以上にわたりトップとして君臨していた静岡県を鹿児島県が抜き、首位になった。鹿児島県のお茶は「知覧茶」が高級茶として知られている。その「知覧茶」は約350年の歴史があると言われているが、2007年12月に当時の知覧町、川辺町、頴娃町の3町が合併して南九州市となり、別ブランドだった川辺茶、頴娃茶が2017年に統一され「知覧茶」となった。その南九州市は「知覧茶」の生産額が約134億円で、全国市町村別のお茶の生産量では日本一である。  今回、鹿児島県のお茶が静岡県のお茶を生産量で逆転した大きな要因は土地にある。鹿児島県の場合、平面で広大な土地に茶畑はあり、大型機械を導入して生産しているが、静岡県の場合は山間部の斜面にほとんどの茶畑があり、大型機械が使えないというのが逆転を許した理由だと言われている。  また、知覧茶は味も絶品で、これまで農林水産大臣賞や全国茶品評会においても様々な賞を受賞するなど、高品質として知られ高級茶として扱われている。その知覧茶が栽培されている南九州市は、温暖で寒暖の差が激しく霧が深い気候と、桜島の火山灰による水はけがよい土壌がお茶の栽培に適しているという恵まれた環境も大きなアドバンテージになっている  しかし課題もある。お茶の栽培を担う農家が減少傾向にあるということ。ここ15年で約6割の農家が廃業しているというデータが農林水産省にある。これは高齢化や後継者不足が大きな要因であるが、これは知覧茶に限らず全国・全業種における共通の課題でもある。  最後に、南九州市知覧町は、太平洋戦争時に旧陸軍の特攻基地が置かれた場所として知られており、観光名所として「知覧特攻平和会館」がある。ここでは南九州市の職員の方による特攻隊員の方が残した遺書の朗読が聞ける。明日は人間魚雷として敵艦に突っ込んで体当たりする役割を担うことで死を覚悟し、ご両親に書き残した遺言を耳にするのだが、さすがに自然と目頭が熱くなる。命の尊さと平和のありがたみが感じられる場所である。南九州市に行かれた際には、ぜひとも、足を運んでいただきたいと思う。    提供:一般社団法人 全国伝統産業承継支援(伝統産業ドットコム)         こちらのサイトもご覧ください。        伝統産業の事業引き継

第5回 愛媛県今治市      〜欧州から認められた「安心・安全・高品質」生産量日本一の今治タオル

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 大阪の泉州タオルと並び日本を代表する今治タオル。歴史を辿ると、江戸時代から綿の栽培は行われていたが、明治時代を迎えると他地域からの廉価な木綿が出回り、今治の繊維産業は衰退を迎える。そこで、1886年(明治19年)に矢野七三郎が興業舎を設立し、「伊予ネル」の生産を開始。一度衰退した綿業を復活させ『今治綿業の父』とも言われた。今治城内にある銅像には「首倡功」の文字が刻まれており、今治綿業の黎明期を築き、偉大なる創始者として称えられている。その後、1894年(明治27年)には、阿部平助という人物が綿ネル織機を改造してタオル織機を作り、今治のタオル事業が始まりを告げたと言われています。  その今治タオルだが、1984年(昭和59年)には最盛期を迎え、コンピューターの導入により生産量は増大。織機台数3200台。人員2500人。年間生産量170億円。全国の生産量の60%を占めるまでに発展を遂げていった。しかしながら、その後は中国や韓国などから安価な輸入品に押され低迷。今治のタオル事業は危機を迎えた。  その危機を救ったのがクリエイティブディレクターの佐藤可士和氏によるブランディング。2007年、政府の「JAPANブランド育成支援事業」に参加。補助金を受けながら改革に取り組み、2013年にはピーク時の5分の1まで落ちていた生産量を2割増しに引き上げるなど成果を見せた。その要因は、今治タオルの特徴である「安心・安全・高品質」を前面に打ち出し、今治タオルブランドのマークとロゴの使用が、一定の品質を保ったものにしか認められないというブランディングにあったと言っても過言でない。ミラノを中心とした欧州各地で開かれた見本市に出展して今治タオルは高く評価された。欧州の水は硬水でタオルがボロボロに痛みやすく、吸水性に加え赤ちゃんが口に入れても大丈夫という「安心・安全・高品質」を売り物にする点が評価された。ここに120年以上続く今治のタオル事業が息を吹き返したのである。今では様々な生活シーンで使われる今治タオルは日本のシェア6割を占めている。  さて、タオルで知られる今治市であるが、造船業という隠れた日本一の産業がある。今治市に本社を置く今治造船をはじめとして、市には500社を超える造船関連企業があり、今治市が海事都市として言われる所以がここにある。今治市の人口は約16万人。約3万人の家族が造船